第三話

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第三話

「木島君、最近いいことあった?」 「えっ」  合奏の後そう問いかけてきたのは、佐々木さんだった。彼女は僕と同じクラリネットパートの二年生だ。 「なんか、前は部活中暗いオーラが漂ってたけど、最近はちょっと楽しそうだから。何かあったのかなと思って」 「うーん」  何か、特別なことはあっただろうか。思考を巡らせながら、頭に浮かんだのは穂積先輩の顔だった。 「さあね。秘密」 「えー、気になる」  別に隠したかったわけではないけれど、先輩との出来事は自分だけのものにしたいような気がした。 「じゃあ、気が向いたら教えてね」 「うん、わかった」  必要以上に他人に深入りしないところが、佐々木さんの長所だと思う。人との距離感を掴むのが上手いというか。真面目だけど、さっぱりした性格をしてる。  彼女はテキパキと楽器の手入れを終えると、ひらひらと手を振りながら音楽室を後にした。今日はこの後予備校の授業があるらしい。  僕は、今日個人練はしないけれど、なんとなく三年生の教室の方に向かった。昇降口も同じ方向にあったし、なんとなく先輩にまた会えるんじゃないかと思ったから。  あれから、何度か先輩とは話した。出会った日のように教室で個人練をしている時や、たまたま廊下ですれ違った時に。毎回、近況やどうでもいいことを軽く話したりする程度だけれど、彼について少しずつ知ることができるのは嬉しかった。  僕が先輩の教室を覗くと、彼が後ろの方の席に座っているのが見えた。机に向かって、何かを書いているようだ。他の人の姿は見えない。 「穂積先輩」  僕が教室に入って声をかけると、先輩は顔を上げた。 「木島君。元気?」 「はい。先輩はお勉強中ですか?」 「一応ね。もうすぐテスト期間だから」  確か、明後日がちょうど期末テスト一週間前のはずだ。その日から部活は活動停止期間に入るから。 「勉強、順調ですか?」 「まあまあ。平均点は超えられそうかな。そっちは大丈夫?」 「うーん、赤点に引っかからないか微妙そうなんですよね……。補習があると夏のコンクール前の練習に出られなくなるから、なんとかしないと」 「木島君、真面目そうだから頭いいのかと思ってた」 「普段の素行と勉強の出来は関係ないので……」  僕は世間的に見ると多分勉強は不得意な方ではないはずだけど、ギリギリでこの学校に入ったから入学後の成績はあまり良くない。 「何が苦手なの?」 「英語と日本史と数学です」  日本史と数学はまだなんとかなりそうだけど、一番まずいのは英語だ。先生の話を聞いていると眠くなってしまって、いつも途中で意識を失ってしまう。(先生は陰で催眠術師と呼ばれている) 「……俺が教えようか?」 「えっ」  驚いて先輩を見ると、彼のブラックホールみたいな黒い瞳が僕を捉える。 「日本史は選択してないからちょっと難しいけど、それ以外は二年生の内容なら教えられると思う」 「お、お願いしてもいいですか……? 先輩は神様ですか……」  室内は薄暗いのに、先輩に後光が差しているように見えてくる。 「大げさ」  先輩はそう呟いて、くすりと笑った。  二日後の放課後、僕は先輩の教室の前で彼を待っていた。放課後一緒に勉強をする約束をしていたのだ。一、二分立っていると、先輩が焦った様子で走ってきた。 「ごめん、H Rが長引いちゃって」 「大丈夫ですよ、全然待ってないので」 「今日、どこで勉強する? 図書室とか自習室だと話せないし」 「カフェだとお金かかりますしね」 「二階の渡り廊下とか? 確かベンチとか机もあったし」 「いいですね。そうしましょうか」  部活の停止期間に入ったため、廊下は静かだった。おそらく学校に残っている生徒は、図書室か自習室にいるのだろう。  僕と先輩は二つ並んだ椅子にそれぞれ座った。机に教科書とノートを置く。 「今日は英語でいいかな? 日本史は最悪直前に詰め込めばいけるけど、英語は時間がかかりそうだから」 「わかりました」  僕はコミュニケーション英語の教科書のテスト範囲のページを開いた。 「じゃあ、ここからいこうか。関係代名詞はわかる?」 「一応、大体は」 「ここは非制限用法が使われてて――」  先輩は、すらすらと英文を解説していく。きっと彼は先生とか向いているんじゃないだろうか。  彼の吸い込まれそうな黒い瞳は、教科書を一心に見つめていた。肩まで伸びた髪が、さらりと揺れる。まるで一枚の絵画みたいだと、ふと思った。宗教画に近いだろうか。あの手の絵は、某激安イタリアン料理店の壁に飾ってあるものしか見たことがないけれど。 そんなことを考えていると、先輩はにわかに僕の顔を覗き込んだ。 「ここまでわかった?」 「は、はい」  先輩に見惚れていて、本当は半分くらいしか聞いていなかったかもしれない。だめだ、しっかりしないと。 「じゃあ、ワークの問題解いてみて。わからないところがあったらいつでも訊いていいから」  先輩はそう言うと、自分の教科書を出して勉強を始めた。  僕も自分のワークを開いて問題を解き始めた。 「今日はここまでにする?」 「もうこんな時間! そうですね、それそろ帰る支度をしますか」  腕時計を見ると、針は七時近くになっていた。  あれから、教科書の解説を先輩にしてもらって、ワークを解いて、わからなかった問題を教えてもらってを繰り返した。最初以外は真面目に取り組んだからか、ワークの正答率は以前よりも上がった気がする。  僕と先輩は、校門の辺りまで並んで歩いた。六月の空はまだまだ明るくて、絵の具をこぼしたような水色をしていた。 「今日だいぶ単語の意味とか文の構造はわかったみたいだから、この調子なら少なくとも赤点は回避できるんじゃないかな」 「よかった……。先輩、本当にありがとうございました」 「自分の勉強にもなったから。明日は日本史やる?」 「そんな毎日はさすがに申し訳ないですよ。先輩も帰りが遅くなってしまいますし」 「それは大丈夫。いつも用事がなくても学校に残ってるから」 「そうなんですか? ……じゃあ、明日もお願いしていいですか?」 「うん。――じゃあ、また明日」  先輩が小さく手を振る。いつも彼と別れる時、次はいつ会えるかなんて保証はなかった。でも、今こうして明日の約束ができることで心が躍るような心地がした。  先輩は、駅とは反対方向の道へと歩き出す。おそらく、家がそっちの方向なのだろう。 「また、明日」  僕も帰り道を歩き出す。中で星が瞬いているのではないかというくらい、僕の胸は高鳴っていた。
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