第四話

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第四話

 合奏は、世界が作られていく感じやラストに向かう一体感を味わえるから、嫌いではないと思う。たぶん。  前までは音楽の全てが大嫌いだったけれど、穂積先輩と出会ってからは、少しだけましになれたような気がする。  でも、大会前にピリピリした空気とか先輩からの小言とかは、今でも好きにはなれない。  だから、僕は音楽が、吹奏楽が好きなのか、好きと言っていいのかわからない。 「二十五小節目から、クラリネットとフルートだけで吹いてみて」 「はい!」  顧問である西井先生からの指示に、僕たちは部屋中に響き渡るような声で返事をする。  演奏を聴いた先生は、眉を顰めた。 「ユニゾンの部分の音程が合ってない。今度ちゃんと揃えておいて」 「はい!」 「じゃあ同じところから、全員で」 「はい!」  今日の合奏では怒られるようなことはなかったので、下駄箱で僕はほっと息をついた。テスト明け最初の合奏だったので緊張していたのか、疲れでどっと体が重くなった。  高校の吹奏楽部は色々な中学出身の人が集まっているので、それぞれのスタートラインの位置は大きく異なっている。クラリネットパートの同級生や先輩の多くは、県大会やそれより上の大会に毎年出場していたような中学出身の人ばかりだ。それに比べて、僕の中学は地区大会を抜けたこともない。元から才能がある人や自分の力で成長できる人は、高校に入ってから大きく実力を伸ばしているけれど、僕はそれもできていない。 「だめだな、そんなこと言ってちゃ……」 「木島君?」  声がした方を見ると、穂積先輩が少し離れたところに立っていた。イヤホンを取りながら、僕の下駄箱に近づいてくる。 「あ、穂積先輩」 「久しぶり。テスト、どうだった?」 「赤点は回避できました! 英語は初めて平均点を超えました」  僕がそう言うと、先輩は少し目を細めた。 「そっか、よかった。  ――実のところ、ちょっと心配だったんだ。でもそれを聞けて安心したよ」 「先輩のおかげですよ」  先輩の言葉はいつも少しくすぐったくて、あたたかいと思う。  彼が他の人と話しているのを見たことがないからわからないけれど、いつも、誰に対してもそうなのだろうか。  それとも、僕だけ?  いや、僕は先輩に対して何もしてあげてないし、こんなに親切にしてくれる理由も正直わからない。先輩は、何を考えているのだろう。  そんなことを考えていると、ぐうとお腹の鳴る音が昇降口に響き渡った。思わず、恥ずかしさで顔が熱くなる。 「お腹、空いたの?」 「はい……。母が昨日から旅行に行ってて、お昼にコンビニのおにぎりしか食べなかったので。  夜ご飯、何か買わなきゃな……」 「夕飯、一緒に食べる?」 「えっ」  予想外の提案に、僕は思わず目を見開いた。 「学校の近く、結構飲食店たくさんあるし」 「先輩は家に夜ご飯が用意してあるんじゃないですか?」 「確か夕飯は昨日の残りのカレーだから、別に親は困らないはず。その分明日の朝食べればいいし」  家に着くまで空腹に耐えるのは辛いし、先輩ともっと話したかったから、僕は先輩の言葉に甘えることにした。 「じゃあ、ぜひ……。  食べたいものとか、ありますか?」 「うーん、なんだろう。君は?」 「僕も、虫料理とか激辛なものとかじゃなければ、なんでも食べられますね。」 「とりあえずファミレスにでも行く? 安いし、なんでもあるし」 「そうですね! 何食べようかな」  僕たちはファミレスに向かった。足取りは体に羽が生えたように軽くて、胸の中は高揚感であふれていた。  ファミレスの店内は、平日の昼間だからか空いていた。僕たちは奥の方の、窓際の席に通された。椅子に座ると、先輩はパラパラとメニューをめくる。僕もメニューを開くと、定番のハンバーグやステーキが目に入った。ここは安さ重視で麺にするか、がっつり肉料理にするか、迷いどころだ。 「何頼むか決めた?」  僕が一通りメニューを見終えると、先輩が僕に尋ねた。彼はもうメニューを閉じていて、頼むものを決めた様子だった。  よし、昼ご飯が少なかったしお腹が空いたから、やっぱり肉料理にしよう。 「僕はチキングリルにします。先輩は?」 「俺はこれかな」  先輩は、メニューの最初のページにある、ケチャップがたっぷりかかったオムライスの写真を指差した。確かこの店の看板メニューだ。 「へえ、オムライスも美味しそうですね。好きなんですか?」 「うん。最近は来てなかったけど、ここに来た時は、だいたいいつもこれを頼んでた」  先輩は、エッグベネディクトとかマリトッツォとか、横文字のおしゃれなものを食べていそうなイメージがあったから、少し意外だった。 「じゃあ、呼出ボタン押しますね」  僕がすぐ目の前にあるボタンを押すと、先輩は少し伸ばした手を引っ込めた。 「もしかして、押したかったですか?」 「ううん、前よく一緒に来てたやつがめんどくさがりで、いつも俺が押してたから。つい癖で」  先輩はそう言って、心の中で思い出を振り返るように窓の外を見つめた。  店員さんに注文を済ませると、僕たちの間には沈黙が流れた。 「えっと……。改まって向き合うと、ちょっと緊張するね」  先輩は、真っ黒な目を少しだけ細くして微笑んだ。 「そうですね……。普段はたまに少しだけ話すくらいですし、勉強会の時も、勉強の話以外ほとんどしませんでしたし」 「そっか。じゃあ俺、木島君のこと、知ってるようで知らないな」 「確かによく考えたら、僕も先輩のことはまだあんまり知らないですね」  先輩と過ごした時間は短いのに、そうとは感じない心地よさのせいで、忘れていた。  初対面でいきなり泣き出した僕にも親切にしてくれる、優しい性格であること。  いつも放課後教室に残っていること。  笑った顔がとても綺麗なこと。  どうでもいい話でも、じっくり聞いてくれること。  勉強を教えるのがうまいこと。  ファミレスではいつもオムライスを頼むこと。  先輩について僕が知っていることは、それくらいしかない。  僕は出会った時から弱いところばかり見せてしまっているけれど、先輩の心の柔らかいところも、それ以外も、ほとんど彼について何も知らないのだ。 「木島君は、好きなものはある? 趣味とか、特技とか」 「え」 「お互いを知るためには、好きなものから知っていくのがいいかなって」 「そうですね、うーん……」  なんだかお見合いみたいな雰囲気になってしまった。ドラマで見たことがあるくらいだから、実際のお見合いがどんなものかは知らないけど。 「好きなもの、か……」  僕の好きなものって、なんだろう。  スポーツ? いや、運動はそんなに好きじゃない。  読書? 本を読むのは嫌いじゃないけど、最近はそこまで進んでは読まない。  じゃあ、音楽? でも、僕は本当に音楽が好きだと言えるのだろうか。 「木島君は、吹奏楽部だったよね」 「は、はい」  先輩の言葉で、一気に現実に引き戻される。黙ってしまった僕を見かねて、話題を変えてくれたみたいだ。  「木島君は、部活で今何の曲をやってるの?」 「八月の頭にコンクールがあるので、今はそこで吹く曲を練習してます」 「へえ、コンクール用の曲なんて、難しそう」 「そうですね。でも、僕はすごく好きです。四季の移り変わりをテーマにした作品で、僕のパートは主にメロディを担当しているんですけど、春の喜びを表した華やかなトリルとか、秋から冬の移り変わりを表現した少し切ない感じの旋律とか、本当に素敵なんです」 「そっか。木島君は吹奏楽が好きなんだね」  先輩の言葉に、僕は思わず目を瞬かせた。 「そう、なんでしょうか……」 「違うの? 今話してる様子は、とても楽しそうに見えたよ」 「……僕、吹奏楽の全てが好きなわけじゃないんです。曲を聴くのも吹楽器を吹くのも好きだけど、周りに比べてなかなか上達しないし、先輩に怒られることも多い。そういうことは楽しくないし、嫌いなんです。だから、手放しに吹奏楽が好きとは言えないなって思ってて……」 「そっか……」  僕たちの間に、沈黙が降りる。せっかく先輩が話題を振ってくれたのに、盛り下げるようなことを言ってしまって申し訳なさが募る。 「あ、あの……」 「……全部を愛せなくても、好きって言っていいんじゃないかな」  先輩がぽつりと呟いた。 「どこかどうしても好きになれない部分があったとしても、他の部分が好きならいいって、俺は思う。全てを肯定できることってそうはないし。嫌いなところを無理に好きになる必要はきっとないし。  ――だから、そこまで難しく考える必要はないんじゃないかな」  先輩は言い終えると、少し眉を下げた。 「ごめん、偉そうに語っちゃって。木島くんのことも、部活のことも、よく知らないのに……。的外れなことだったら、聞かなかったことにしていいから」 「……いえ、ありがとうございます。――なんか心が軽くなったような気がします」  先輩の言葉を聞いて、僕は胸のあたりにあった氷の塊が溶けていくような感じがした。  今まで僕は、部活の嫌な部分にばかり意識が向いていた気がする。周りに追いつけなくて辛いとか、怒られるのが悲しいとか。それに、実力が伴っていないのに好きだとか言っていいのか、わからなかった。  たぶん今嫌だと思っていることがすぐにどうにかなるわけでもないし、好きにはなれないと思う。でも、そのままでもいいんだと思えた。今の状態でも、音楽を好きだと言っていいんだって。 「それはよかった」  先輩はひだまりのような、暖かな微笑みを浮かべた。彼の笑みを見ると、いつも安心できる気がする。  テーブルにチキングリルとオムライスが運ばれてくると、僕たちは食べ始めた。 「――先輩は、部活とかは入ってるんですか?」 「俺?」 「はい」 「特に入ってないよ」 「中学でも入ってなかったんですか?」 「うん。生徒会は知り合いに誘われて入ってたけど」 「へえ、かっこいいですね。何の役職に就いてたんですか?」 「副会長。生徒会長が幼馴染で、無理矢理やらされたんだ。色々面倒なこともあったけど、それなりに楽しかったよ」 「文化祭とかで活躍したんですか?」 「うん。生徒会の出し物で、シンデレラの劇をやらされたり」 「先輩は何の役だったんですか?」  僕が聞くと、先輩は「失敗した」という風に、少し苦い表情になった。こんな顔の彼を見るのは、初めてかもしれない。 「……シンデレラ役」 「えっ」 「くじ引きで決まったんだ。本当はやりたくなかったんだけど、しょうがなく……」 「でも、先輩似合いそうですね」  先輩は、肌は白いし、身体も細い。顔も中性的で綺麗だから、女役も似合いそうな気がする。 「あんまり嬉しくないな……」  先輩はさらに眉間に皺を寄せた。  「す、すみません……」 「別にいいよ、評判がよかったのは事実だし……」 「写真とかないんですか?」 「あるよ」  先輩はスマホを少し操作すると、画面を僕の方に向けた。 「はい」 「ありがとうございます」 「ここまで来たら、じっくりどうぞ」  先輩は少し自虐気味に言った。  写真には、先輩ともう一人王子役らしい男子が並んで映っている。彼は先輩の肩に腕を回していて、二人はとても親しげに見えた。先輩は金髪のかつらをかぶって、水色のドレスを着ている。知らない人が見たら女子だと思ってしまいそうなくらい、可憐で可愛らしかった。 「可愛い……。一緒に映ってるのも、生徒会の人ですか?」 「そう。生徒会長だったやつ」 「さっき言ってた、幼馴染の人ですか。仲良さそうですね」 「うん。前はしょっちゅうお互いの家に行ったり、遊びに出かけたりしてたよ」  そう答えた先輩の瞳は、まるで大切な宝物を取り出す時のように、懐かしさを滲ませていた。 「今は、その人は……」 「もう会ってないよ」 「何か理由があるんですか」  僕が尋ねると、彼はそっと口元に人差し指を当てた。 「秘密だよ」  先輩の表情に、少し切なさが見えたのは気のせいだろうか。彼のそんな様子を見るのは初めてで、僕は何も言えなかった。 「――ご飯冷めちゃうよ」 「あっ、急いで食べます」 「時間はあるから、焦らないでいいからね」  僕はあまり減っていないチキングリルを慌てて頬張る。再び顔を上げると、先輩はいつも通りの様子に戻っていた。  店を出ると、空には星が出ていた。七月とはいえ、八時過ぎになると外は真っ暗になる。 「先輩、今日はありがとうございました」 「こっちこそありがとう。楽しかったよ」  先輩は、駅と逆方向の道へと足を踏み出す。その時、僕は思わず彼の腕を掴んだ。 「どうしたの?」  先輩が不思議そうに僕の方を見る。 「あの、えっと……」 何を言いたいのか頭の中でまとまらないまま口に出したせいで、言葉に詰まる。 「ゆっくりでいいから、落ち着いて」  先輩が優しくささやいた。先輩の声は、低くはないけれど穏やかで、聞くといつも落ち着ける。 「僕、先輩と話す時間すごく好きです。だから、ええと……」 先輩に、僕も何かしてあげたいと思った。今日僕は先輩に大切なものをもらった気がしたから、僕も先輩のさみしさを埋められるような何かがしたかったのだ。 「――僕も、木島君と話すの好きだよ」  暗くてよく見えなかったけれど、先輩はそう言って微笑んでくれたような気がした。  それを聞いて、僕は嬉しくて踊り出したくなるような、泣きたくなるような気がした。  この気持ちをなんといえばいいのか、僕はまだ知らない。
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