第五話

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第五話

『今日の空は綺麗でした』  僕はチャットアプリでメッセージとともに、帰り道に撮った夕暮れ空の写真を送信した。宛先は穂積先輩だ。  この前一緒に夕飯を食べた時に、アプリのアカウントを教えてもらったのだった。今はたまに、空や野良猫の写真などを送りあっている。先輩からメッセージが送られてくることはあまりないけれど、僕が写真などを送るとだいたいスタンプや短い文を返してくれるのだ。  夏休みに入って会えなくなってしまったので、こうやって繋がりを保ち続けられているのは嬉しかった。先輩と話すと、朝の海みたいな穏やかな気持ちになれる気がする。一緒にいると落ち着くし、先輩の纏う空気感とかが、ただ好きなのだ。チャットでの会話でも、それは同じだった。 「ふう……」  僕はメッセージを無事に送ることができたのを確認すると、ベッドに倒れ込んだ。コンクールまであと二週間切っているため、連日の一日練で体はくたくただった。  コンクール曲の『四季の木々』の演奏は、少しずつ形になっていると思う。でも、一番の難所であるクラリネットだけのアンサンブルになる部分は、まだまだの出来だった。そこは冬の終わりの新たな芽吹きを表現する、曲の中で一番大切なところだ。一応クラリネットパートは自分を含めて四人いるけれど、その部分では自分の音一つ一つが客席にはっきりと聞こえてしまう。リードミスなんてしたら、たまったものじゃない。そうやって緊張して力んでしまい、どうしてもその部分に差し掛かるとのびやかな音を出せなくなってしまうのだ。  三年生はこの大会が最後の演奏の機会になる。だから先輩のためにも頑張りたいし、何より僕が楽しんで楽器を吹けるようになりたい。今は苦しいことの方が多いし、余裕なんてない。でも、きっといつかは楽しいと思えるような演奏ができたら、もう少し自分にも自信が持てるようになる気がする。  その時、スマホからピコンと着信音が鳴った。先輩からの返信が来たらしい。 『綺麗だね。』  メッセージは一言だったけれど、思わず頬が緩んでしまった。先輩の言葉は短くても、いつも僕に元気をくれる。 「明日も頑張ろう……」  翌日午後、僕たちは教室でクラリネットアンサンブルの部分を練習していた。 「じゃあ、二百小節目から」  パート練習を仕切っていたのは、パートリーダーである天宮透子(あまみやとうこ)先輩だった。すらりと背が高く、黒く長いポニーテールが特徴の、かっこいいという印象が強い先輩だ。 「佐々木さんと木島君のパート、他のパートにリズムつられないで」 「はい!」  僕たちのパートは他のパートと違うリズムで動いているため、メトロノームをしっかり見ないとずれやすいのだ。少しでもずれると、あっという間にメロディもバランスも崩れてしまう。 「じゃあ、私は前で聴いてるからもう一回」 「はい!」  僕たちはもう一度同じところから吹く。さっき注意されたところに気をつけながら。 「木島君、一人だけ音色浮いてる。周りに合わせて」 「はい」  リズムを合わせようとすると余計に力が入ってしまって、音が硬くなってしまう。でも、ここは柔らかく、芯があるけれどしなやかな音で演奏しなければいけない。そうするには、体の力を抜いて喉を開かないと。そう思えば思うほど緊張で肩が強張る。 「木島君、顔色悪いよ。大丈夫?」  隣の佐々木さんがそっと耳打ちしてきた。彼女の声は、本当に心配しているようだった。 「うん、大丈夫、これくらい」  体調が悪いわけではなかった。だから、これくらいで休んでいるわけにはいかないのだ。早くみんなに追いつかないと。 「じゃあ、もう一回」 「はい」  今度は、指が震えてうまく回らない。こんな観客がいない状態で緊張していたら、本番なんて絶対無理なのに。  だめだ、だめだ。演奏に集中しないと。  次は周りを聴いてハーモニーの音程を合わせる。そして、その次は――。  その次は。  周りの音が急に遠くなって、頭は真っ白になった。自分の音しか聴こえないから、周りと合っているのかもわからない。何も考えられない。 「ちょっとストップ。木島君。大丈夫か?」 「大丈夫です、すみません……」 「体調悪いの?」 「いえ……」 「それならちゃんと真面目にやってくれ。コンクールまで二週間切ってるんだ。  だいたい君、他の人よりできてないのわかってるのか? 中学ではろくに練習してなかったみたいだけど、高校入ってからちゃんとやってた? 時間だけ長くやってても意味ないんだ。この譜面なんてそんなに難しくないんだから、普通に練習すればできるようになるはずだろう」 「すみません……」 「いつも謝ってばかりだし。できないのわかってるなら、足引っ張らないくらいの実力は身につけてくれ。」 「はい……すみません……」  練習後、校舎を出ると外は少し雨が降っていた。今日は傘を持ってきていなかったけれど、これくらいなら差さなくても大丈夫だろう。  ――このまま、どこかに逃げてしまいたい。このまま透明人間にでもなって、この世界から消えてしまいたい。   どこかに寄る予定はなかったけれど、家にまっすぐ帰る気にはなれなかった。今の空と同じくらい心の中はどんよりしていて、胸のあたりに何かがつかえているような感覚がする。  そこで僕は、重い足を引きずって高校の近くにある公園に行くことにした。遊具はブランコやすべり台くらいしかなく、いつもあまり人がいないところなのでちょうどいい。  公園に着くと、そこは世界から切り取られてしまったのように静かで、どこか哀愁が漂っていた。誰も乗っていないブランコが、風でゆらゆらと揺れている。僕はそこにゆっくりと腰掛けた。 「はぁ……」  佐々木さんは「気にしすぎない方がいいよ」と言ってくれたけれど、気持ちは晴れない。気にしなくても楽器が急に上手くなるわけでもないし、気にしても結果は変わらないだろう。  どうしよう。本当にどうすればいいかわからない。  自分ができていないのはわかってるんだ、でもどうすれば演奏がうまくできるようになるのか、僕には何もわからないんだ。  練習にかけた時間も回数も、他の人と同じかそれ以上のはずだ。吹いている時間も、ちゃんと集中していたつもりだ。高校で習った基礎練習も練習法も、全部毎日取り組んでいる。なのに、なんで。なんでできるようにならないんだろう。どうしていつまで経っても他の人に追いつけないんだろう。どうして置いていかれてしまうんだろう。そのせいで合奏やパート練習ではいつも緊張してびくびくしてしまう。それ以外の時も先輩とはうまく話せない。本当は仲良くしたいと思ってる。でも、怖いし、僕なんかが親しくしていいのかわからない。  今日の天宮先輩の言葉が、頭の中で何度も再生される。 「この譜面なんてそんなに難しくないんだから、普通に練習すればできるようになるはずだろう」  僕は彼女たちにとっての「普通」のレベルにすらなれていない、そのことがつらくて苦しかった。  外はまだそれほど暗くないのに、僕の周りだけ真っ暗になったような気がした。周りの人の背中さえ見えなくて、僕はひとりぼっちだ。  その時、闇の中一筋の光が差すように、声が響いた。 「……あれ、木島君?」  僕が顔を上げると、公園の入り口に穂積先輩の姿があった。彼はゆったりとした足取りで、僕の方に近づいてきた。 「先輩、どうして……」 「近くのコンビニに行ってきたところ。こんなところに一人で、どうしたの?」  先輩の優しい声に、思わず涙腺がゆるむ。今泣いてもどうしようもないのに。 「……」 「話してみてよ、少し楽になるかもしれないから」  滲んでいく視界の中で、先輩が微笑む。彼の暖かい手が、そっと僕の背中を撫でた。
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