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「――姉様はいいなあ。ずっと高次様と一緒にいられて」
妹にそう言われたのは、いつのことだっただろう。
思い返せば苦労の多い人生だった。物心もつかない幼いうちに城を失い、父親を失い、母の再嫁先で義父を亡くし、同時に母まで失った。
その後、幼馴染の従兄に嫁いだまではよかったが、子宝に恵まれず、夫の側室が生んだ子供を養育する羽目に陥った。跡継ぎなどと贅沢はいわない。娘でもいい。せめて一人でも自分の子を。祈り続けた願いは、結局、終生聞き届けられることはなかった。
「いいなあ、姉様は」
徳川二代将軍の御台所、三代将軍の母、天皇の外祖母――おおよそ、女として登り詰めるこのできる最高の地位にまで登り詰めたというのに、妹は時折、お初と話す時だけ童心に戻る。あの時、幼女のようなあけすけな羨望に何と返したのか、その時の自分の言葉が、お初はどうしても思い出すことができなかった。
「これはこれは、常高院様。大御台様は今、眠られたところでして」
「大儀ない。妹の寝顔を見て帰るだけじゃ」
父は小谷城主浅井長政、母は織田信長の妹於市の方。父母を同じくする三姉妹の末妹、お江が病に伏したと聞いて、江戸城にやってきたお初を待っていたのは、豪奢な絹の褥に埋もれ、病みやつらえた妹の姿だった。
髪は抜け落ち、目は落ち窪んで、三歳年上のお初よりよほど老けて見える。生まれ育った城が焼け落ちた時、まだ赤子だった妹。美しいというより愛らしい風貌で、天真爛漫、誰からも好かれた末妹は数奇な運命を歩み、二代将軍徳川秀忠の正室となった。
三姉妹の一番下であるお江が最初に嫁いだ日のことを、お初は昨日のようにことのように覚えている。相手は母方の従兄である佐治一成という青年で、彼と一年足らずで離縁した後は、関白秀吉の養子に嫁ぎ、一女をもうけた後に夫に死なれ、三度目の婚姻と相成った。
運命に流されるように三度も夫を取り替えた妹ではあるが、夫婦仲はいずれも良好だった。最初の夫の一成との離別はともかく、二度目の夫が死んだ時の嘆きは見ていられないほどだったし、三度目の夫である秀忠との仲は特に良好で、子宝にも恵まれ、誠実な人柄の秀忠は側室も持たず、今もなお六歳年上の正室を慈しみ続けているという。
「……結局、我ら三姉妹の中で最も恵まれていたのは、そなたでしたね、お江」
長姉、茶々は関白豊臣秀吉の側室になり、嫡男秀頼を産んだものの豊臣家は滅び、大阪落城と共に儚くなった。次女の自分も、将軍や天下人とははるか遠い、地方大名の正室に過ぎない。
人の気配を感じたのか、眠っているはずのお江の身体が動き、錦の夜具から痩せた腕がはみ出した。これが人の身体かと疑りたくなる枯れ枝のような腕を夜具の中に戻してやろうとした時、血の気をなくした唇の端が微かに動いた。
「……様」
「お江、目が覚めたの?」
乾いた唇に微笑が浮かび、心なしか頬に赤みが戻る。やせ衰えた掌で姉の腕を握り締め、妹は確かに呟いていた。
「一成様……」
それはお江が十二歳で嫁ぎ、一年もたたずに離縁させられた最初の夫の名だった。そもそも関白秀吉の命による政略結婚であり、当時のお江の年齢を考えれば、通常の夫婦関係があったのかどうかさえも疑わしい。
離縁されて帰ってきた直後はさすがに多少しおれていたが、またすぐにいつもの明るい妹に戻って嫁いで行ったので、一番年齢の近い姉のお初でさえ、妹の心の内にあるものに気づかなかった。
「……お江、そなた」
愛していたのか。わずか十二歳で嫁がされ、すぐに別れた最初の夫を。
――姉様はいいなあ。ずっと高次様と一緒にいられて。
あの時、わたしは妹に何と答えたろう。
お初にとって、年上で父方の従兄にあたる夫・京極高次は初恋の相手だった。だが女が政略結婚の駒に等しい時世に想う相手と夫婦になって、幸せだったのは、最初の数年のみだった。
なかなか子が授からぬことに泣き、高次の側室への嫉妬に苦しみ、思うようにならない義理の息子に手を焼かされる日々を、幸せだなどとは口が裂けても言いたくなかった。
おまけにお初の舅が天下を取ると、高次は妻の立場で手に入れた地位を「蛍大名」と揶揄され、その苛立ちをお初にぶつけるようになった。正室でありながら子がないことや、姉や妹ほどの器量がないこと、あげくの果てに、京極家がかつては浅井家の主君であり、下克上によって浅井が京極に成り代わったことまでを、事あるごとに責め立ててくれた夫が逝ってくれた時にはほっとした。側室を持たない夫と生みの子に囲まれた妹が、口に出さすとも心の内では、いつも羨ましくてならなかった。
掴んだその手はそのままに、お江は少女の顔で微笑んでいる。閉ざした瞼の裏側で、現世では会うことも――名を呼ぶことさえ許されない最初の夫と合間見えているのか。その手を掴んでさすってやりながら、お初は妹の命が最早長くはないことを悟っていた。
寛永三年十一月三日、徳川二代将軍徳川秀忠正室・お江与の方死去。享年五十四歳。
夫亡き後、義息子が跡を継いだ江戸屋敷の一角で訃報を聞いたお初は、数珠を取り出し、亡き妹の面影に思いを馳せた。
――姉様はいいなあ。ずっと高次様と一緒にいられて。
子に恵まれ、夫に愛され、女としての最高位まで登り詰めた妹がずっと羨ましかった。しかし再嫁を繰り返し、まるで物のようにやりとりされた妹もまた、一人の夫と連れ添い続けた姉を羨んだことがあったのだろう。
言ってやればよかった。あの時、あの子の目を見て、私の口で。
「……おやすみ、お江。わたしはとても幸せでしたよ」
お初の乾いた頬を涙が伝って行く。数珠を爪繰りながら、お初は初めて己のこれまでの人生が不幸せではなかったことを知った。
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