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君の物語になりたい
あれだけ冷たかった風はいつの間にか角を落とし、丸みを帯びた柔らかなものになっていた。春だ。何かが始まる予感がする、春はそんな動く季節だと僕は思う。
見下ろした桜の木はまだ蕾だけど、あと一週間もしたら見頃を迎えるだろう。穏やかな風のせいで、緩やかな季節だと感じるけれど。でもその実、春は気が早い。ぼうっとしていたら、すぐに終わってしまう。僕の抱く、それが春の印象だ。
「もう春だね。楽しみだな」
彼女は病室の窓から見下ろせる桜並木──まだひとつも咲いちゃいないけど──を眺めながら、呟くようにぽつりと言う。僕は持ってきた花をベッドサイドテーブルにゆっくりと置いた。
スノードロップ。鉢植えの小さなそれは、見舞いの花としては不適切かもしれない。だけどこれは彼女が望んだ花だった。
「ありがとう。嬉しいよ、そのスノードロップ。約束、守ってくれたんだね」
「花屋さんに聞いたら、やっぱりお相手の好きな花を贈るのが一番だと思います、ってさ。鉢植えのしかなかったから、少し迷ったけど」
「いいの、好きだから。ほんと素敵。外でのお花見がダメになっちゃったからさ、一番好きな花が近くにあるのは本当に嬉しいよ」
「ダメになったって、先生が許可してくれなかったのか。体調、どうなんだよ」
僕がそう問うと、ベッドに座った彼女は困った笑顔を浮かべた。それは彼女の癖だ。彼女は答えづらいことがあると、決まって眉を曇らせる。そして彼女は正直だから嘘がつけない。だからただこうして、曖昧に黙るのだ。
「外に出られなくても、そこから桜は見えるだろ。団子でも買ってくるから、ここから花見をしよう」
「病室からなんて、お花見じゃあないよ。やっぱり桜の木の下でないと、趣きがないと思わない?」
「身体に障ったら元も子もないだろ。大人しく室内花見で我慢しておくんだな」
「それは残念。でもいいや。キミがこの子を連れてきてくれたからね」
彼女は細い指でスノードロップの花に触れた。小さな鈴みたいなそれを、細めた目で愛でている。
その姿はあまりにも儚げで。そのままにしていたら、消えてしまいそうで。僕は思わず、彼女に声を掛けた。
「来年こそ桜を見よう。なにも今年限りじゃないんだし。そうだろ?」
彼女がそこにちゃんといることを確認して、僕はベッドの近くの丸椅子に腰掛けた。少しだけ開けた窓から、春風が緩く流れ込んでくる。
彼女は僕の質問には答えずに。窓の外を眺めたあと、やや強引に話題を変えた。それも彼女の癖だった。
「……ねぇ。あのお話の続き、どうなった?」
「どの話の続きかな」
「キミが書いてるお話は、ひとつしかないじゃない」
彼女にせがまれて、僕が書くことになってしまった小説の話になった。小説は専ら読むだけだった僕にとって、書くことは苦痛以外の何ものでもない。だからわざとぶっきらぼうに言う。
「──あぁ、あの駄作か」
「駄作じゃあないよ。キミの書く物語だよ、傑作に決まってるよ」
「凡作にすらなれてないと思うけど。それに読者は君だけだしな」
「そこが何より嬉しいの。だってキミと私の物語だよ、出会ってから今までのお話だよ。キミが私だけに書いてくれる物語。そんなの素敵に決まってるじゃない?」
「まだ出会って二ヶ月しか経ってないけどな」
「そうだっけ? もっと一緒にいる気がするよね」
確かに、と僕も思う。彼女とはもっと前から、こうしていた気がする。それほどまでに近い距離なのだ。いや、僕がそう思っているだけかも知れないけれど。
「どうしたの?」
「いや、別に何も」
「もしかして、私に見惚れてた?」
「それはない」
「……なぁんだ、残念」
唇を尖らせて言う彼女は、元気そのものだ。でも僕は知っている。それが、空元気に他ならないということを。
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