麻婆豆腐が行方不明

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麻婆豆腐が行方不明

(お腹が空いたな……)      私は処理作業をしていたパソコンから目を離し、眼鏡を外して目頭を揉んだ。目がしぱしぱして、数字の6か8か9か良く分からなくなってきたのはよろしくない。    引き出しから取り出した目薬を点して、ふと時計を見るともうランチタイムまであと少しだった。  仕事の続きは午後にしよう。          私はもう考えるのに飽きるほど職場周辺のランチメニューは食べ尽くしていると言ってもいい。    大学を出てから5年も同じ会社に勤めている上に、ランチは近くの店で外食かコンビニでサンドイッチかおにぎり、または自宅からの弁当持参の繰り返しのようなものである。  営業なら出先で新しい味の出会いもあるだろうが、経理畑の人間にはまずそんな機会はない。    そして私は正直言ってしまうと、料理にはとんと才能がないのでほぼ100%外食。自炊の弁当という選択肢はないのでより食の幅が狭まっている。        一人暮らしを始めて4年ほど。  当然最初は「27にもなる女が全く料理が出来ないというのも如何なものか」と思って頑張ってはみたのだ。    だがパンをトーストする程度なら何とかなるのだが、作業が2工程を越えた途端に失敗率が上がる。  レシピを見ながら作っていても、どうしてか美味しいモノが出来た試しがないのだ。    植物を枯らさずに育てられたりする人を【グリーンフィンガー】と言うらしい。  料理の場合は【クックフィンガー】と言うのかどうかは知らないが、私には料理を作るセンスが欠片も存在しない事が判明してからは、家では専ら朝食の食パンを焼くか、ご飯だけ炊いて市販の惣菜を買って食べる。  または冷凍食品をチンする。  またはカップ麺に入れるお湯を沸かす。  これが私の食事への能動的作成活動の全てである。      しかしながら、私は美味しいモノを食べるのは大好きなのだ。なのに神様もなかなかシビアである。  美味しいモノを食べたい人間が美味しいモノを作れれば自給自足出来るものを。        ……だが、今日財布を持って会社を出た私の足取りは軽い。何故なら最近オープンしたばかりの中華の店が、とても美味しい事が先週判明したからである。  まだ3回しか行ってないが、メニューを完全制覇するまでは通いつめると決めている。      「今日はやはり王道の麻婆豆腐か……いや中華丼も捨てがたい……」    ウチの会社の一番の取り柄は、ランチタイムが11時45分からであるという事である。  一般的な企業の平均的なランチタイムが12時からである事を考えると、店が満席になる前に滑り込める事が多いこの15分の差はなかなかに大きい。      ──よし、麻婆豆腐にしよう。    店の扉を開いて漂ってきた香辛料の香りに誘われ心を決め、足を踏み出した瞬間、気が急いていたのか入口の段差に躓き、こらえられずに思いっきりこけた。     「っっ!」      何と恥ずかしい。思わず目を瞑った。    ここは何でもなかった振りで立ち上がるのが最適解だ。……しかし転んだのだから膝や手に痛みや痺れがある筈なのに、それが全くない。    そして。     「……おやおや、積極的な女性は嫌いじゃないが、ひとまず誰か聞いてもいいかな?」      と呟く男性の声にんん? と目を開くと、長い艶やかな銀髪の、それはもう今まで見た事がないほどの見目麗しい男性が半裸で大きなベッドに横たわり、何故かその男性の横に私が座り込んでいた。    入った筈の中華料理屋の2倍か3倍はありそうな広い空間、赤と黒を基調にした映画のセットかと思うほど洗練された豪華な室内が視界に入る。   「──麻婆豆腐を食べに来たのですが、お休み中のところお邪魔して申し訳ありませんでした」    基本的に物事に動じないと言われている私だが、半裸の男性の部屋にいた自分に流石に動揺したらしい。    麻婆豆腐を食べるため間違えて男性のベッドに転がり込みました、というどう考えても変質者待ったなしの有り得ない説明をして土下座した。    いや、私にとってはまごうことなき事実なのだが、信じて貰うのはかなり難しいだろう。本人ですら胡散臭いと思う発言なのである。   「……マーボー……ドーフ?」    首を傾げる半裸の男と、どうしてベッドに自分がいるのか分からない変質者容疑の女。    何故ここにいるかという疑問よりも、まずは早くこの部屋を出なくては確実に警察沙汰であろうという考えしか浮かばず、ベッドから下りて深く頭を下げた。    扉の前で向き直り、失礼致しますと改めて半裸を見ないよう視線を落としたままで男性に一礼すると、素早く扉を開けて外に出た。    なるべく早くここから離れなければ、と早足で出口を求めて歩き出したが、出口はどこだ。この広々とした赤い絨毯の敷かれた廊下も全く記憶にない。    私の会社は小さいながらもいわゆるオフィス街にあるため、テナントが入ったビルか小さな雑居ビルぐらいしか近くにはなかった。  ……なかったと思っていた、今までは。   (このところの残業疲れで幻覚が見えているのだろうか? それともあの時に頭でも打って気を失って、オーナーの家とかで休ませて貰っていたとか……)      だが雑居ビルのたいして大きくもない中華料理屋のオーナー(推定50代パンチパーマ)がこんな大きな家に住んでいるのだろうか? 広さといい造りといい、もう家というか豪邸とか屋敷と呼ばれる類いだ。      ともかく一旦表に出て冷静にならねば。  近くの公園で頭を冷やそう。      ここが玄関かもと思われるデカい2枚扉があり、ホッとして扉を開いて表に出た。          ──だが、馴染みのある筈のビルはどこにも見当たらず、遠くに見える高い山、広く周囲を取り囲んでいる石の壁、そして着物に似た格好をした男女が歩く、謎の光景が目の前には広がっていた。       「……ここは、どこですか?」      何故か怖い顔をして走り寄って来た数人の着物の男性に囲まれた私は、既に自分の考えが及ばない状況下に置かれている事をようやく理解したのだった。              
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