働くおじいちゃん

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働くおじいちゃん

【常磐視点】     (さあてねぇ……)      私は珍しく溜まった書類を片づけながら考えていた。      忙しげに書類にサインをして振り分けていた黒須が、のんびりと現れて執務机に座った私を見て一瞬カッ、と目を見開いたが、折角の年に1度あるかないかのやる気を妨げてはならぬと思ったのか、物音も立てずにすっ、と立ち上がると、足音を消しつつ何処かへ消えていった。苦労してるねえ黒須。ま、私のせいだけどねぇ。        千里町でナノハと一緒に夫婦のふりをしながら長屋に住み始めて1ヶ月少々経った。    これが中々に楽しいのだ。   「千里長屋に住んでる朱鷺さんとナノハさん夫婦」    として、町の蕎麦屋、総菜屋、定食屋などでは少しずつ認知されて来て、風呂屋に行けば同じ長屋の住人などとも顔を合わせて世間話をしたり、家に戻ればナノハとお茶を飲みながら話をして眠る。    ただそれだけの事と言ってしまえばそれまでなのだが、ただの町の平凡な民として暮らすのは、王宮でゴロゴロしているより色んな事が起きて毎日が刺激的だ。    眠ると言えば、黒須が運び忘れた布団を翌日運んで来たのだが、土間のある台所がすぐ隣のせいか、底冷えして2枚被っても眠れないので、ナノハに窮状を訴え引き続き一緒に眠らせてもらっている。      ナノハは温かくて、変な髪あぶらや匂袋など強い香りがするものを一切使わないので、鼻がムズムズしたりする事もなく、ナノハの体臭が仄かにするだけでいつも気持ち良く眠れる。  抱き心地も柔らかくて高級な枕のようだ。    ただ、夜中にトイレに立ったナノハが居ない事で寒さでうっすら目が覚めかけてきた時に、戻ってきたナノハが、   「あー、もうおじいちゃんてば寒がりのクセに寝相悪いんだから」    と独り言を言いつつ、はだけていた布団を直していたのは少しばかり傷ついた。    年齢はそうだけれどもさ、おじいちゃんじゃないだろうよ。一応王だよこれでも。  見た目もまだ若いと思うんだけどね。    大人げないと思いながらも、ナノハがおじいちゃんと呼んでいたのが自分の心にさざ波を起こしていた。      ナノハにしてみれば愛称のようなもので、常磐の名前を呼ぶと改めて王様と暮らしてる自分、という意味不明なプレッシャーのかかる状態を思い起こすので、「朱鷺さん」や「おじいちゃん」というオブラートネームを無意識に使っているだけなのだが、盗み聞きした本人には当然分かってはいない。      ナノハが男に間違われる事が多いのは、恐らく普段から作務衣など着ていて髪も黒須より短いためだろうなあ、と再び考え事に戻る。    ベリーショートという髪型らしく、洗うのも楽で水はけもいいのだと言う。女性は水はけの良さで髪型を選択する生き物だっただろうか。  きっとナノハだけな気がする。    ああ、それと、本人が何やらチチケンがどうとか言っていたが、どうも胸が小さいから尚更なのだと言いたいらしい。    まあ確かにすとんとした感じだけども、寝ている時にちょっと触れたらささやかなモノではあるけれど、きちんと存在していた。    触ったからといって、淫らな事を考えてではなく、単なる確認だったけれども。    私のナニが元気になるとかそういう話も一切なく、やはり女なのだなあと安心したかったというか。    ナノハが嘘をついているとは思わなかったけれど、万が一という事もあるし、毎晩王が暖を取るためとはいえ抱きしめて眠っている相手が男だったら、自分もかなりショックな訳だし。      まあそれはいいとして。先日黒須に引きずられるようにして帰って来たナノハが、正座をして説教を受けていた。どうやら酔っ払いに絡まれた女の子を助けた際に、日本でやっていた合気道というのであしらったらしい。毎朝やっていた鍛練の事のようだ。      全くか弱く儚い人間だと言うのに、ナノハはどうしてそんな無茶をするのやら。   「いえ、本当にでしゃばるつもりも目立つつもりもなくですね、若い女性が難儀をしている所を素通り出来なかったというか──」   「だからな、ナノハはその若い女性よりももっとヤワなのだぞ? もしも足の骨でも折れてみろ。2年3年寝たきりになるのだろうが。来年には帰らねばならないのにコロリと死んでしまったら元も子もないだろう」   「ですから、そんな長いこと寝たきりにもなりませんし、コロリとかそんなあっさり死なないですってば。皆さん人間を何だと思ってるんですか」   「紙ふうせんの如く脆い生き物。もしくは人の形をしたカゲロウ」   「1週間で死にませんし。生きますよ何十年も!」   「何十年も、という時点で既に儚い命ではないか」   「妖し年齢と比べないで下さいよ。  それに日本でか弱いなんて言われた事ないですから私。心配しすぎると……禿げますよ黒須さん」   「禿げてない!」   「未来は分かりませんからねえ。日本では悩み多き中間管理職は概ね毛根に甚大な被害を受けています。  もっと心を広く持ちましょうよ、まだ毛根が生きている内に。余命宣告が出てからでは遅いんですよ?」    美しい姿勢で正座をしたまま結構言いたい放題に黒須の精神を抉ったりしていたナノハであったが、どうもその助けた女性が合気道を教えてくれと翌日から熱心にウチに通って来るようになった。    最初はやらないと断っていたのだが、押し切られて近くの空き道場で休みの日に教える事になったらしい。   「考えてみれば、道場の師範という立場なら、作務衣着ていても問題ないなーと思いまして。  それに、私も20年程度しかやってませんし、40年以上やってる父ですらまだまだ稽古が足りないとか言う位ですから、そんな簡単に上達出来るもんじゃないんですよね。基本的に自己研鑽と精神鍛練が主目的ですし、華やかさはないですもの。地味ですし。  若い子なんて退屈して、すぐに飽きるんじゃないかと思うんですよね。  いつまでも家に来られても長屋の人たちに申し訳ないですし」    それに正直いって、着物の歩きにくさに鬱憤が溜まるのです、たまにならいいんですけどねぇ、と呟いた。    教えるのが目的というより、着物を着なくていい正当な理由が欲しいと言うのが本音のようである。      ナノハは分かってないが、数十年の修行など妖しには大した歳月ではない。むしろ新しい武道が広まれば、たちまち手を出す輩は増えるであろう。    何しろ暇なのだから。    長命はいい事ばかりではないのである。   剣道は流石に何百年もやっているので、若干警護の武士たちも少し飽きては来ているようだが。      そして、休みの日になると、黒須に借りる手配をしてもらった道場で、厚手の作務衣を着て(転がるのが多いから薄手だと痛いらしい)、朝から一教だの入り身投げだの小手返しだのというのを熱心に教えている。  剣道の道衣に袴というのもあるが、始めてやる人には足捌きの邪魔らしい。      最初は5、6人の女性が通っているだけだったが、長屋の女性もナノハが実は東の武道の先生だったらしい、とすぐ噂が広がり、私もやりたいと少しずつ人が増えて今では20人以上が練習道着である厚手の作務衣でどたーんばたーんとやっているらしい。   「立っている時も姿勢がいつも真っ直ぐで綺麗だと思っていたけれど、やはりその道の先生と言うのは違うわねえ」   「最初は身体中痛くてしょうがなかったけど、少しずつ感覚が掴めてきたわね」   「そうねそうね」    などと話している弟子たちを見ると楽しそうだから私もやりたいなと思ったが、女性しか受け入れないらしい。   「あくまでも私がいる間だけですし、男性がいるとやりにくくなりますしね。  最低限女性が襲われたりした時の緊急避難が出来るようになればと」    と急に先生と呼ばれるようになって責任を感じているのか、ナノハは午前と午後に分けたり、時には臨時で仕事の後の夜に指導していたりする。      そこまではいい。      問題はそれまで休みの日には新しい店に一緒に食べに行ったり、夜には風呂屋の帰りに一杯居酒屋でひっかけて美味しいオツマミを出すところを探す、などと言っていたナノハとの楽しいお出かけの時間がめっきり減ってしまった事にある。      要するに、私は時間が有り余っている。  暇なのである。     (……でも、ナノハに私が暇だから指導を減らせとは言えないしねぇ)    だが王宮に戻りたいとも思わない。    長屋での生活はそれほどまでに代えがたい。     (私も何かやる事があればいいんだけどねぇ……)    と考え、ふと天啓が降りた。   「食事……そうだよ食事だよ!」    疲れたナノハが帰って来た時に、外食に行かずに家にご飯があったら嬉しいだろうし、食べて風呂屋に行くだけですぐ眠れるじゃあないか。  私だっていい暇つぶしが出来る。    私がご飯を作るなんてマメな事をしたら、おじいちゃんなんてとても言えないよね。気の回る粋な男だとナノハは見直すんじゃないかねえ。    そうだきっと喜ぶだろう。    ただ、ナノハは食い意地が張ってるからねぇ……まずいモノは作れないよね。    ──これは食料を買うついでにお店の人や長屋のおかみさんたちに教えて貰わないと駄目だね。    そうと決まればこんなところで時間を潰している訳には行かない。ナノハが道場から帰ってくるまでに美味しいご飯を作らなくては。      私はそそくさと帰り支度をして王宮を後にした。          その後、頑張っているであろう常磐へお茶を運んで来て、もぬけの殻になっている執務部屋を眺めて唖然としていた黒須に同情の眼差しを向ける文官たちの姿があったが、これも本人には知るよしもない事であった。          
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