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早まる帰国
「……どういう事なんだい?」
早朝から黒須さんが深刻そうな顔をして家に現れて報告したい事がある、と私たちに告げた時には、いつもの心配性の黒須さんの事だし王宮の下水が詰まったとか予算が溜まっているからまた新しい野球場を作ろうとか、そういう類の話だと私も常盤様も思っていた。
だが、朝食を食べてお茶を飲みながら聞いていると、この和宝国ではなく私に関係する案件だったと気がついた。
本来ならまだ1ヶ月半は後に現れる筈の異界の門が開く前兆が現れているというのである。
「私も見張りの勘違いかと思い山に向かったのですが、確かにいつも異界の門が現れる辺りの空気が重たくなっており、耳鳴りがしました」
私は実際に門みたいなものが現れるのだと思っていたのだが、いわゆるブラックホールのような円形の黒い空間が広がるものらしい。それが黒須さんの言う山の五合目辺りの洞窟に発生するようだ。洞窟の前には、子供が迷い込んだりしないようにというのと、洞窟自体の変化をチェックする為に王宮から見張りが二人立っているのだとの事。
こちらから異世界へ行く人はそこから入り、戻って来る時もその空間かららしい。
何故か私は常盤様のベッドの上だったが、行く人と来る人はルートが違うのだろう。だってそもそもここに来る予定もなかったのだし。
「……という事は、近々門が開く、という事ですか?」
私は黒須さんに問い掛けた。
「そうだな。今日明日という事はないだろうが、多分一週間以内には。──もしかすると昨今の地震の多さも何か関係しているのかも知れないな。ナノハ、いつでも帰れるように支度をしておいた方がいい」
「分かりました。ですが支度と言っても荷物も持ってなかったですし……あ、でもようか堂へ調理パンや菓子パンのメモを書いているのでそれを仕上げないと。
あと、合気道の道場の後任者への依頼もまだです」
せっかく広がった合気道を私が居なくなる事で無くなってしまうのは寂しいし、ようか堂にももっと美味しいパンが他にあるんだと教えておきたかった。作れるものなら是非再現して欲しい。
もっとゆっくりできると思っていたのに、と頭が少し混乱する。
常盤様や黒須さん、東雲さんやチカ様、この町の人たちともお別れか。
……いざその日が来ると思うと寂しい。胸が締め付けられる思いだ。
「黒須、ちゃんとすぐ門が開いたらすぐ伝達出来るよう人は増やしておいておくれ」
「かしこまりました」
「あと、ナノハは道場やようか堂の件もあるだろうし、帰る日までは王宮の仕事はいいよ。
こちらで出来た友人にも仕事で離れた所に引っ越す事になったから、とさりげなく別れも告げたいだろう? 私もどうせナノハが帰ったら王宮に戻るからね」
「……ありがとうございます」
いつもよりテキパキと事務的に話を進める常盤様に、ほんの少し切なさを覚えるのは何故だろうか。いや、元から珍しい異世界の人間がやって来た事による国王の休暇のようなものだったのだから当然といえば当然か。少しは寂しがってくれたらいいのにと思う方が間違いだ。
王宮へ向かうという常盤様や黒須さんを見送り、私も気持ちを切り替えようと自分の部屋に戻った。押入れにしまっていた風呂敷包みを取り出し広げた。私が和宝国に来る時に来ていた服である。確認したが、シャツも洗ってあるしパンツスーツも綺麗な状態だ。
シワが出来てしまっているので衣紋掛けにかけておいた。作務衣もすっかり着慣れてしまったので、一着くらいは頂いて帰ろうかと思ったが、こちらの品物を持ち込んで何か起きても困る。日本に戻ったら買おうと決めた。
ふと、鏡を見た。髪の短いまんまの化粧気もない女が映っている。
……髪の毛、そういえば伸びなかったなあ。私は髪の毛をいじった。
やはりこちらの時の流れ方と日本での時の流れ方は違うんだなと思い、常盤様たちと住んでる世界が異なるのを見せつけられたような気がして、また胸が痛んだ。
「まあ! ナノハ先生たちお引越しするんですか!」
「そんな、寂しいですわ」
「仕事の関係で……急に決まった事で申し訳ありません」
私は美弥さんと琴音さんに頭を下げた。
「それでなのですが、美弥さんと琴音さんに道場の師範代をお願い出来ないかと」
「え? 私たちがですか? そんな無理ですってば」
「いえ、新しいお弟子さんへの教え方も上手ですし、皆をまとめる力もお持ちです。
私が居ないからといって、そのまませっかく始めた合気道を辞めて頂きたくないんです」
少し前から、琴音さんにも美弥さんにも、なるべく覚えて欲しいと稽古の後に別途新しい技を少しずつ教えていた。一番初めに始めたというのもあるが、飲み込みがよく上達も早い。世話好きで面倒見もいいし、私が行かれない時に代理稽古をお願いしていた。私のような無表情な愛想のない先生よりもよほど適任だと思うのだ。
「お願いします。この通りです」
深く頭を下げるとちょいとナノハ先生やめて下さいよっ、と慌てて頭を上げられた。
「もう……ナノハ先生のように教えられるか分かりませんけれど、私たちも続けたいと思っているので、お引き受け致しますよ」
美弥さんの言葉にホッと息をついた。琴音さんも頷いている。
「本当にありがとうございます。お二人に断られたらお手上げでした」
「ナノハ先生には沢山教えて頂いたし、これからも教えて欲しい事が沢山ありましたのに……」
琴音さんが涙ぐんで私の袖を掴んだ。
「私もここに住んで皆さんとお会い出来て楽しかったです」
私も貰い泣きしそうになるから泣かないで欲しい。
「また機会があればこちらに来て下さるんですよね?」
「そう、ですね。近くに来た時には必ずご挨拶に伺います」
「絶対ですからね!」
来られる事はないけれど。
「ええ? そんな急じゃありませんか!」
「申し訳ありません」
ようか堂の店長である久我さんへ挨拶に行くと、驚いた顔をして香住さんを呼んだ。
二人揃った所で改めてお詫びとお世話になったお礼を告げた。
「お世話になってばかりなのは私たちの方じゃありませんか。旦那が生き生きと働いてる姿が見られるようになって私は毎日ナノハ先生に拝んでましたのに」
「本当に残念なんですが……。それで、これを久我さんにと思いまして」
私は風呂敷からメモをまとめたものを取り出した。
「これは、私の国で売られていたパンで、大体の材料と作り方が分かるものを書いて来ました。
いつか……また千里町に戻って来られる時があったら売ってたらいいなあと。ただ私は全く料理やパン作りの才能はないので、久我さん独自に頑張って頂くしかないのですが……」
「そんな大切なものを……」
久我さんが推し抱くように受け取ると、目を潤ませた。だから皆涙もろいの止めて。
「必ずやナノハ先生の国と同レベルのパンを作って見せますので、何百年先でもいいですから是非また千里町に戻って来て下さいね」
何百年先はチリになっていると思いますが。
「分かりました。その時には是非デニッシュを食べたいと思います。ご馳走して下さいね」
努めて明るく振る舞い、私は家に戻った。常盤様はまだのようだ。
明日は東雲さんや王宮の人たちにもお別れをせねば。
「……」
父のいる日本に戻れる。
嬉しい。嬉しいに決まっている。
それなのに、私の心の中で何かが抜け落ちてしまっている気がしてならない。
ずっと誤魔化していたけれど、私は常盤様が大好きだ。
前の恋人とは比べ物にならないほどときめいてしまうのはそういう事なのだろう。
私が顔に出ないタイプで良かった。
この頃は毎晩布団の中で抱き合って眠るのすら辛かった。
抱き枕としか思ってない女に好意を伝えられても困るだろうし、元から伝えるつもりなどない。帰る人間にそんな事を言う権利などないのだ。
ずっとここにいる決心なんて出来ない癖に。
翌日。
東雲さんや王宮の皆にも挨拶をして、黒須さんにいつごろ門が開くのか確認しようと思ったら、黒須さんは外出中だった。常盤様も居ない。
山にでも行ってるのかも知れない。忙しいのだろうし、帰って常盤様が戻ってから聞いてみようかなと王宮を出ると、天女の羽衣を買って長屋の皆に渡そうと思い立った。
お金は使い切れる筈もなく、沢山残っている。残った分は全部返すつもりだが、せめてお世話になった人たちへのお土産ぐらい買ってもいいだろう。
小袋に分けて貰った大量の天女の羽衣を入れた袋を抱え、家に戻ろうとして歩いていると、
「ナノハ先生!」
と呼び掛ける声がした。振り向けばチカさんである。
あ、チカさんにはまだ挨拶してなかった。何しろ洋華国の王宮に行く訳にもいかないし。
「異界の門が開きそうだって聞いたが、ナノハ先生帰るのか?」
耳元で小声で尋ねられた。
「流石に情報が早いですね。──帰りますよ」
「本当の本当に帰るのか? 俺がせっかく幸せにしてやるって言ってるのに」
「幸せはしてもらうものじゃなくて自分でなるものですよ」
私は天女の羽衣を取り出して渡した。
「お世話になりました。もっと常盤様とも仲良くして下さ──」
いきなり抱き締められて息が詰まった。
「行くな」
「っく、苦しいですチカ様」
ただでさえガタイのいいむきむきの男性なのに、力を入れられると本気で苦しい。
力を緩めてくれたので腕から抜け出した。
「何度も言いますが、チカ様にはそういう気持ちはないんです」
「……常盤ならあるのか?」
「……」
いきなりそんな事言わないでくれませんか。
「どちらにせよ、私は戻るので関係ありません。それにか弱い女性に無理難題を言うのは魅力のある男性とは言えませんよ。嫁を探す前にその辺りから勉強して下さい。
権力でどうこうするのは一番ダメですからね」
「……すまん」
私は一礼すると、すたすたと歩き出した。
常盤様に抱き締められるのと、チカ様では全く違う。ときめかない。
改めて常盤様への思いを感じてしまい、溜め息が出そうになった。
「おいナノハ先生、せめて家まで送らせてくれ」
「……もう急に抱きついたりしないのであれば」
「分かってるって。いつ帰るか分かんねえんだから送るぐらいさせてくれ」
私とチカ様が家に向かって歩き出す。
「せっかくいい女に会ったのになあ……」
「珍しいタイプだからじゃないですか? こちらの人間じゃないですし」
「俺は、心が強い女が好きなんだよな」
「強くないですよ別に」
「んでもって、好きな男に好きとも言わないで帰ろうとする不器用な所も嫌いじゃない。
俺じゃないのが残念だが」
「……言い逃げはしたくないですから」
「まあ、常盤も昔からそういう感情は疎いっていうか、興味ない感じだったから、分かってねえとは思うけどよ」
「言わないで下さいよ」
「俺からは言わねえよ。でも後悔しねえか?」
「するに決まってるじゃないですか。でも後悔ってのは後でするから後悔なんですよ。
常盤様は、ああ見えて可愛いんですよ。料理が上手く出来ると誉めて欲しそうにしてるし、一生懸命バット振って今度はホームラン打つとか子供みたいな事言ってるし、あんな男前の癖に寒がりで上下おじいちゃんみたいな肌着着てますし」
「そうか」
「本当はチカ様の事だって認めてるし、自分なんかより王としての出来はいいんだよって言ってるんですよ。でも悔しいから認めてるとか一生言わないそうです。2000年以上生きてる癖にせこいんですよね考え方が」
「そうか。……ほれ」
手ぬぐいを渡されて、自分が泣いているのだと気付いた。
「……すみません」
「いいよ。帰るのが嫌なら帰らなきゃいいのに、そうは出来ないから泣けるんだろ」
ポンポン、と肩を叩かれると、チカ様は魅力のない男性じゃない事を認めざるを得なくなるではないか。私もまだまだだわ、と思って顔を拭っていると、
「ナノハ! やっと見つけた! 良かった」
と黒須さんが走って来た。額に汗が浮いている。
「どうしたんですか? 常盤様は一緒じゃないんですか?」
「いや、別行動だが。それよりも早く支度をして欲しい。門が開いた」
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