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道場がある国。
「……やっぱり夢ではなかったか……」
私は見覚えのあるアパートのベッドで目を覚ます事を期待していたのだが、世の中そううまいことはいかないようだ。
貸し与えられた一室は、白とサーモンピンクを基調にした女性っぽい部屋。
女性の使用人が使うように考えられているのだろう、ベッドと引き出しのついたハンガーラック、書き物が出来るようなミニ机と椅子、その横にはメイクも出来るコンパクトな鏡台が並んでいた。
シンプルにして充分である。
着替えのための下着や衣服も何着か用意して貰っていて、引き出しにはいれているがスッカスカだ。
まあ1年ほどお世話になるだけなので、適宜ほつれや傷みが出てきたら交換する位でいいので問題はない。
肌が弱く、化粧品はかぶれて赤くなったり痒くなる事が多かったので、ここ数年は保湿性のあるリップクリーム位しか使っていなかった私には、鏡台は身だしなみのチェック程度の役にしか立たないとは思うが、鏡があるのは便利である。
壁にかかっている時計を見ると外は明るいがまだ6時より少し前。体が覚えている平日の起床時間と同じである。いやほんと時計がある国で良かった。
江戸時代のように丑三つ時だの八つだの半刻だのお寺の鐘の音で判断させられるようなシステムだったらお手上げだった。
昔の人はよくちゃんと時間通りに仕事にいったり人と待ち合わせが出来たものだと思う。
ベッドから降りると紺の作務衣に着替えて洗顔と歯磨きをする。
私は寝相が悪いので浴衣のような寝間着はお腹が冷える。黒須さんにお願いして寝間着も男性用の長いTシャツのような夜着とイージーパンツ風のものを用意してもらった。家でもパジャマかトレーナーの上下だったので大変落ち着く。
廊下に出てすぐのところにあるトイレで洗顔をし、しゃかしゃかと歯を磨きながら考える。
どう足掻いても来年の今頃まで帰れないのなら、なるべくこの和宝国を堪能して帰るというのが得策である。
この無表情さで周囲からは距離を置かれやすく、いい印象を持たれにくいので、そこはなるべく言葉や誠意でカバーするしかない。
人付き合いも1人でいる事が多くてしかも楽というボッチだったので、この新しい環境に馴染むのは大変ではある。
しかしながら良好な人間関係は近隣の美味しいお店を聞き込んだり、こちらでの日常生活のマナーやルールを知るのに最適であるので、精進あるのみだ。
昨日の食事は私にはかなり甘かったが、野菜も魚も素材は素晴らしく新鮮で旨味豊かで美味しかった。
高級な料理ほど甘くなるというのであれば、庶民の生活に根付いた低料金の店などは私好みの味つけではなかろうか。うん、そうに違いない。
私が和宝国に来てしまったのはまぐれ、たまたまであり、一種の旅行のようなものだ。
旅とくれば、ご飯と観光が主目的である。
というかそれ以外何がある。私好みの美味しいモノに巡り会えるまで絶対に諦めないぞ。
ここの人たちは元々は人ではなく妖しだというし、無愛想な人間が1人いたところで一時的だ。料理を食べに店に紛れ込んだところで、長生きしている方々だしそんなに迫害されたり絡まれたりする事もあるまい。
部屋に戻ってくると、黒須さんが来るまでやる事はない。手持ち無沙汰になり、掃除をしたがまだ7時。おそらく黒須さんが来るのは早くて8時9時だろうと合気道の一人稽古もする事にした。
私の父は合気道の道場をやっており、私も小さな頃から道場に通っていた。
母が病気がちで子供がそばにいると気が休まらないのもあったのだと思う。
母が病気で亡くなってからは、学校以外はほぼ連日道場に通っていた。
「女性はどうしても筋力的に男性には敵わない部分もあるし、注意力を高めて痴漢暴漢に襲われても最低限自分の身は守れるようになりなさい。あと、人として柔軟性のある子になって欲しいな父さんは」
母をこよなく愛していた父は、いつもそういって私の事も可愛がってくれた。
師匠としては厳しかったが、再婚するでもなく、男手1つで娘を育てるのは大変だったと思う。
そんな父を私は心から尊敬している。
東京で1人暮らしをするようになってからは、道場も近くになかったのでアパートで一人稽古をするだけだったし狭いので出来る事も限られていたが、ずっと行っていたものをやらないと体がむずむずするものである。
社会人になってからはストレス発散で近所のキックボクシングのクラブにも通うようにもなったが、下半身が安定してるねえと会長に誉められた。
その安定した下半身は、締日を過ぎてから経費の領収書をヘラヘラと持ってくる営業やら、結構な金額の接待費を複数出してくる上司のイライラをぶつけるために使われたのだが。
(この部屋は広いし、受身の稽古が出来そうだなあ)
床も軽く拭き掃除をして、ストレッチを行い、受身の稽古をしていると、バタバタと足音がして王様が部屋の扉を叩いた。
「ナノハ! 何やら不審な物音がしたが大丈夫か!?」
……広くても音は漏れるものだ。反省反省。
私は扉を開けて、お詫びをした。
「すみません。一人稽古をしていただけです。お騒がせしました」
相変わらず何故か下穿きしか履いてない王様は、寝癖のついた髪の毛をかきあげて、
「ああ、稽古……何か鍛練をしていたのか。
驚いたよ早朝からドタンバタン聞こえたから」
「申し訳ありません、以後気をつけます」
「いや、理由が分かれば別にいいんだけれどね。
室内で鍛練するのは狭苦しいだろう?
板敷きの剣道の道場が隣に建ててあるからそちらを使うといいよ」
なるほど。剣道があるのかこの国は。
やはり昔ここにやって来た人は日本人だろうなあ、と私は確信した。
「ありがとうございます。次から利用させて頂きます」
私は頭を下げた。
「それと、出来ましたら人前に出る際には上衣も着て下さると有り難いのですが。一応私も女性なので」
「あっ、済まなかった」
慌てたように自室に戻る王様を見送った。
この国の王様は気安く慌ただしく露出狂気味である。
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