182人が本棚に入れています
本棚に追加
たまに浮かれる事があってもいい。
黒須さんから王宮内部での書類整理の仕事を与えられ、早くも1ヶ月が経った。
王宮といっても、ヨーロッパなどにある玉ねぎみたいな屋根がある童話のようなところではなく、和風と中華風が混ざったようなテイストの建物と言えばいいだろうか。日本のお城を平屋にした感じで中華っぽいカラーリング、というのが正直な印象だ。
赤と黒が王宮の基本カラーなのだが、壁は砂壁に近いざらざらした造りで、扉は板で出来ているがドアではなく襖のように横開きだし、鍵は閂式で内側からしかかけられない。
無用心極まりないが、今まで不在の時に泥棒や不審者が入って騒ぎになった事はないとのこと。
妖しさんは長生きのせいか刹那的な生き方を好まないようで、ただのんびりと自分が働いて得たお金で暮らしていければそれでいいという感覚らしい。
まあ国が豊かで年俸もそれなりに出るそうなので、ワザワザ強盗までして人のお金に手を出したりする必要もないのだろう。
鍵に関しても、あくまでも着替えを覗かれない為だったり、夜這い避けが必要な女性の家や部屋につけるものらしい。
男性はいいのだろうか。
──いや、あえて深く突っ込むのは止めておこう。
不自由である事がこの国の民の何より嫌う事なのだ、と黒須さんは教えてくれた。
その為なのか、喧嘩も抜き差しならなくなる前にどちらからともなく謝って大事にはならず、牢屋もあるにはあるが、酔っ払いがうっかり飲み過ぎて気が大きくなって喧嘩で謝り損なって殴ってしまったとか、片想いを拗らせて好きな女性に夜這いをかけようとして家の扉を破壊したとかその程度のもので、事件らしい事件は起こらないので殆ど使われる事もないらしい。
女性にしてみればいきなり盛りのついた男がやって来たら怖いと思うのだが、変身できずとも流石に妖力のある妖しさんである。触れると警報が鳴る糸状の結界というのを張る事もできるらしい。
女性夜這い事件の時は、被害者がかなりの美女でモテモテだったので警戒心も高く、毎晩結界を張っていたこともあり、犯人が押し入った際には夜中に大音量の鐘の音が鳴り響き、周囲の男たちがこれは一大事と助けに来てくれたらしい。
なるほど結界というのは便利なものである。
相手の男も土下座して謝り、扉の修理費も出した上に、迷惑料という形で結構な値段の着物も贈り幕引きとなったそうだ。
夜這いをかけるほどの勢いがあるならストレートに告白をするぐらい何て事はないだろうと思うのだが、既に1回告白して振られていたそうだ。
日本では諦めずに101回目で好きな女性に振り向いて貰えたというおとぎ話もある位だし、その人にはこれから頑張って下さいと心でエールを送っておこう。
ただ話を聞いていて【年俸】という話で時が止まり、冷や汗が流れた。
(……ちょっと待て、日本に帰る直前に貰っても困るのだ。食べ歩きが出来ないではないか)
と動揺し、黒須さんに頼んで月給制にして貰った。
私にとっては振られた男の夜這い話よりもよほど重要な話である。危ないところであった。
和宝国も1日24時間7日周期であり、4週間と5週間の月はあれど、年に5週間の月が5回の時もあれば4回の時もあり、上手いこと調整されて平均で360日から370日に収まっているようだ。
ここも地球のように1年で太陽の周りを一周する惑星に存在するのだろうか。何にせよ馴染んだ感覚と同じであるのは精神的に安心する。
人間関係については、最初の頃は髪が短く男のような格好をしてウロチョロしている私に奇異の目を向けていた王宮の同僚の方々も、
「異界の民である」
「異界では女性も髪を短く切る風習がある」
「服装も男女問わず作務衣」
「衣服にお金をかけるゆとりがない貧しい国らしい」
と事実と事実でない噂が混在してまことしやかに流布され、可哀想な子という眼差しを向けられたり、お饅頭をくれたりするようにはなったが、お陰で変な目を向けられる事も直ぐになくなった。
感情表現が薄いのも、辛い生活が長いためだと優しさを持って温かく受け入れられている。
個人的にはこれじゃない感はあるし、日本と日本人への冤罪案件も絡んでいるのは問題であるとも言える。
……だが事実を証明する事も出来ないし、ここにいる日本人は恐らく私だけである。
そして、私個人にとっては概ね正しいため、否定しきれないのもまた事実なのである。
考えた末に、積極的に肯定はせずあからさまな否定もしない、というファジーなスタンスで、嘘はついていないというギリギリのラインを保つ事にした。
大丈夫だ、日本には玉虫色の回答と言う便利な言葉がある。
そして、私は誰にも気づかれてはいないだろうが、現在相当浮かれている。
何故ならば、本日黒須さんから初給料を貰い、明日明後日と休みだからだ。
お給料を貰う際に一般的な金銭価値もついでに教えてくれたのだが、何とお金の単位は「えん」である。
ただ、えんはえんでも、日本の円ではなくえにし、つまり縁という字を充てるようだ。
いきなり新入りに30万縁はやり過ぎだと思うが、これが最低賃金だそうだ。ベテランは100万縁前後は貰っているらしい。
日本で手取り18万程度の人間に、衣食住完備の住み込みで残業ゼロで30万貰えるとか不安しかない。
飲み食いや衣服だけで帰るまでに使い切れるとはとても思えないが、残ったら残ったで返せばいいかと有り難く受け取った。
大根は1本で100縁から200縁程度、食事もソバが1杯300縁程で、揚げ物や卵などを追加するとプラスされていくそうで、大体日本の金銭感覚と同じだ。
そして、以前ここにやって来た異界の民が日本人(断定)だったためか、書物に使われている文字も殆ど日本語なのである。
いや殆ど、というのは正しい表現ではなかった。
草書のように崩して書かれる事が多いので、単に私が読めないだけである。
大分慣れては来たものの、未だ判読が難しい事に変わりはない。ご先祖様たちには、
「【し】【く】【て】【ろ】など似たようなにょろにょろした曲線で全て済ませようとするな」
と強く訴えたいところである。
まあそれはいい。浮かれている理由だ。
明日は職場の東雲(しののめ)さんという、見た目20そこそこの可愛い女性が町を案内してくれるのだ。
妖しさんなので、何百何千と言う単位の年齢が返されてどんどん現実感が無くなって来たので、私は全ての人を見た目年齢で処理する事にした。
明らかに老人、という見た目の人は周りにはおらず不思議に思っていたら、そういう方は妖力が衰えて来ているので死期が近いので、働かず貯金で暮らしているのだそうだ。そりゃあれだけお金を貰って何百何千年と働けばお金も貯まるだろう。
妖しさんも永遠ではないのだな、としんみりした気持ちになり、ちなみにどのくらいの年数でお亡くなりに?……と聞いたら精々200年がいいところだろうと言うので、(充分長生きだろが)と全く同情する気は失せた。
私たち人間の寿命は長生きしても100年前後だから羨ましいと答えたが、その後やたらと重たいモノは持つなとか、ちょっと躓いただけで血相変えて同僚が駆け寄ってくるようになってしまった。
私の要介護レベルが上がったらしい。
いやそんな簡単には死なないし、種族として普通ですから、と説明し理解して貰うのは時間がかかった。
生命の長さではなく密度の問題だと思うし、私は100年どころか80まで元気に生きられたら御の字だと思っているので、むしろ長生き過ぎるのも大変だろうなと思う。
王である常磐様も退屈なのか、私が働き始めてから毎日のように昼間そこら中で遭遇するし、夜は夜で毎晩食事を一緒にして日本の話をあれこれ聞いてくる。
こちらに来てからなかなか独りでゆっくりする時間がないし、王様と食事をするのは気が張るし、いい加減話に飽きてくれないかと思うのだが、久しぶりに現れた異世界の人間の話はどれも興味深いのだろう。
まだ1ヶ月2ヶ月位は離してくれないかも知れない。
そんな中でのお給料&仲良くしてくれる同性の友人とのお出かけだ。日本でも滅多にない事である。
楽しみでない訳がない。
王宮から外に出た事もまだないので、どんな町かもとても楽しみだ。
私は鼻唄でも出そうな気分で速やかに仕事を片づけてゆくのであった。
最初のコメントを投稿しよう!