門出

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 真金町まで人力車なら一時間もかからない久良岐郡の庄屋に生まれた有高が医術を志したのは二十歳の頃で、元々片田舎の漁村に過ぎなかった横浜村はその頃長崎、函館に並ぶ外国とにとっての玄関口となっており、万延元年(一八六〇年)には山手と関内に居留地が設置されていた。  外国人は二つの居留地から出ることを許されず、二年前の明治三二年(一八九九年)に廃止されるまで存続した。彼らの遊興のために造られたのが港崎遊郭であり、慶応二年(一八六六年)の大火で消失するまで関内の地にあった。 その後二度の移転を経て、明治一〇年(一八七七年)に永真遊郭として真金町に移される。遊郭が移ろう間、御一新を目の当たりにした有高も江戸から横浜へと拠点を変え、ジョンソンという宣教師に出会った。  幕府から政権を奪い取った新政府が切支丹禁止の高札を撤廃したのは明治六年(一八七三年)のことで、ジョンソンをはじめとする宣教師が居留地では数多く活動していた。ジョンソンは医師としての有高を頼りにして、診療所の一切を任せていたが、自らの診療所を持つという目標を捨てきれずに彼の下を離れて真金町を訪れたのだった。
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