2021年7月1日に思ったこと

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2021年7月1日に思ったこと

なんとなく。 本日から雑記などを始めてみました。 特段、理由はありませんが、執筆しながらの余談だとか、ふと浮かんだアイディアやプロットなどのメモ書き用途に。と考えてますが、基本的には、ふと頭に浮かんだ他愛もない事を雑談のように記していったりしたいなぁ〜などの理由からです。 もし、まかり間違って、御覧頂いていらっしゃる方々には、お暇を埋める程度の駄文くらいのものと受け取っていただければと思います。 早速余談ですが。 先日、奇しくも私のお誕生日でございまして、また一つ歳をとりました。 歳を重ねる毎に人は、大人に成っていく…と申しますが、自分としては、生まれてこの方、歳を重ねる毎に、身体が大きくなったり、あちこち痛くなったり、動きが悪くなったり……くらいで、内容的には何が変わることもなく時間を浪費しています。 お恥ずかしながらも、とうに成人到達してから相当年数経っておりますが、頭の中は10代の頃とあまり変化もなく、単に経年劣化で感覚や認識が鈍くなっていくばかりでございます。 予常々、個人的に思っておりますが。 「大人」とカテゴライズされる人の印象は、基本的に「落ち着きがある」とか「物分かりが良い」とか「動じない・懐が深い」と言われとりますけども……、それが実際本当に良い事なのか?その考え方は本当に正しいのか? なんて疑問視しています。 そもそも、「成人」ってなに? てことなんですけども。 もちろん、年齢的な線引きでの「成人」といった役所の効率重視の話ではなく、世間一般的に、少年・青年が精神的な成熟を迎える「成人」についてのお話ですが。 個人的に「成人」と呼ばれているわきまえのある大人の状態を3つに分けて考えてみました。 ① 能動的にも受動的にも様々な経験体験を経てそれを自身に受入れ活かしている状況。 一般的に、他社への敬意を備え、自身の幸福のみならず、コミュニティや他社の幸福も自分のそれと同等に捉え考え行動ができる、本質的な「成人」です。 紛うことなき「成人」としての精神を持つことができているため、第三者からも「大人」として認識されて然るべく人間です。 ② 誤解。 いわゆる誤解です。 そもそも精神的熟成のある「大人」とはどういう事かと言うと、「大人」は自身で「大人」を認識し、「大人」を名乗ることがない。 ということは、一個人を「大人」と認識し敬称するのは、誰あろう「大人」認識されている本人ではなく、第三者であります。 即ち、一個人 A氏を「大人」であると認識しているのは、A氏本人ではなくA氏以外の別人格がA氏を大人と呼び、大人と認識し扱い、大人たらしめるとすると、当の本人の本質がどうであれ、第三者が観測対象人物を「大人」と認識したら、その人は「大人」なのでして。。。 割と自分周りでも……、決して本質的に、こいつは大人ではないなぁ〜という輩が、どうコミュニケーション齟齬をうまく展開させたのか? 不思議と周りから大人認定されているということがあります。 そういうパターンでは、本質的な交流が、本人と観測的立場間では交わされず、見た目の印象であったり、ふと良いタイミングの振る舞いが、情報として観測的立場に伝わり、功を奏して噂になったりする事があります。 こういう輩は、裏で色々と、悦しい恩恵を受けていたりしまして、「大人」認定をされたことのない自分としては、素直に羨ましいなぁ〜〜、と嫉妬の念を抑えきれなかったりしました。 そういう輩って、悪い事しても悪い噂は回らないんだよな〜。 最も、悪い噂も含めて「大人」感を醸し出してるのかも知れんけど。知らん。 ③年老いて感覚が鈍っている。 これが一番厄介なんですが、はじめに記した「大人」の条件の「物分りがいい」とか「落ち着きがある」とか「物事に動じない」という要素なんですが……。 人間、歳を取って老いてくると、経年による感覚の衰えが皆様が考えている以上に酷くなっておりまして。。。 例えるならば。 割と一つの驚くべき事象に対して、驚くタイミングを逃したり、その事象の本質を捉え逃したり……と、若者にとっては、凡そ理解できないような事が頭の中で起きてたりするんですね。 また。 本来、一つの事柄で怒るべき事に対して、怒りの認識や響きどころがズレていたりすると、一般的に怒る場面で怒れなかったり、酷い場合では、その事象に対し本質的に捉え逃していたりして、頭の中で本質的な「怒り」要素として認識できなかったりすると、その事象を「怒る」という事として捉えられてなかったりすることもあります。 割と、ボケに近いような、大げさなように書いてますが、これってライトテイストな事象にも適応することがあったりしまして、些細なことで激昂しない人は、落ち着いているというよりも、その事象について「怒り」認識がずれているということもあります。 そんな人は、「落ちつている」とか「動じない」と見られ、得していますが、実は「笑い」や「喜び」の焦点もズレていたりするので、実際、一般の若者が笑っていても、一人笑っていなかったり、遅れて無理に笑ったりしている場合があります。 でも、無理にでも他人に合わせて、喜んだり、笑ったりしているおじさんも可愛かったりしますけどね。 人間て、本質的に変わろうとする為には、変わるためのエネルギーを進んで受けに行って、自分の変化として取り込んで、理解していく事をしないと変わるものではなくて、漫然と野放図に、そのまま在り続ける生き方で、時間のみ消費していると、本質的には子供の頃から何も変わらないまま経年劣化した成人未満人間にしかならない気がします。 今、まさに自分に対して、感じている③の認識が個人的恐怖ですね。。。 それが怖くて、見た目は仕方ないとしても、脳内だけは、なんとかアンチエイジを試みたりしておりますが、その結果、認識能力の維持には役立っていても、素直な大人未満人間として順調に時間を過ごしておりますので、今現在に至りましても「大人」という見方はされた事がありません。 久しぶりに会う知人に「お前は変わらねえなあ」とか「お前はずっと若いなぁ」という言葉を言われたりしても、それは褒め言葉ではないのだなぁ。。。と改めて感じました。 ー終ー
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