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バーにて
「病院、行ったみたいだね。問題なくてよかった。今日は帰りが遅くなるから先に寝てて」と健吾からメッセージが届いたのは、憂鬱な気持ちで夕飯を食べた後だった。
「10年は就業の必要なし」という診断結果が出たのは3日前で、それが頭から離れない。初日は広い邸宅に興奮していたけど、昨夜のことがちらつき、落ち着かなかった。
このままこんな退屈な毎日を、10年も?
それとも、子供がいずれできるんだろうか。だから就業の必要はない、ということ?
そのために、性行為も必要?
ゾッとした。
もう自宅にいて1人なのに、1人になりたい。
心休まるのがあたたかい自宅のはずだったのに。
「奥サマ、ドチラヘ?」
家事ロボの呼びかけを無視して、私は外へ出た。
彼のことを考えたくない。知らないところに行きたい。
いくつかの角を曲がり、細い路地を抜けた。外はすっかり暗い。こんなに暗い中、女の子一人で出歩くのは危なかったけど、今は意思表示ウィンドウがある。私が拒否すれば、角に立っている警官ロボが瞬時に状況を判断し、警告なしで加害者を攻撃する。家も外もロボに私たちの平和は守られている。
ふと空を見上げた。それを待っていたかのように足元の看板が点いた。
「2F 黒猫のタンゴ」そう書いてあった。
カランコロン。古風なベルの音が鳴る。
「いらっしゃいませ」
外付けの階段を登った先のドアを開けると、レトロなバーだった。レンガの壁に黄色っぽい暖かな照明。マスターはカウンターの中にいる女性らしい。「お好きな席へどうぞ」と言った声は少し低い。私は隅のテーブルを選んで座った。ところどころ常連らしき人達が座っている。
目の前に表示されたメニューウィンドウからホットミルクを選択すると、5分もしないうちに湯気と共にカップが差し出された。
ほっとする甘みが口の中に広がる。じんわりと温かい優しいミルクが体に染み渡り、ゆるゆると私の中の何かがほどけていく。
ここには健吾はいない。怯える必要はないんだ。
誰かに話を聞いてもらいたい、そう思った。全部私の中だけで考えているからいけないんだ。
吐き出せば気持ちも変わり、安心して帰れるかも。
「相談あり」のタグにチェックを入れて、意思表示ウィンドウを公開した。「20歳未満です。意に反する行為をした場合、攻撃、逮捕される恐れがあります」の1文だけはいつもデフォルト表示になっている。
ウィンドウを公開した途端にお客さん達がちらちらと興味深そうにこちらを窺う。
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