これほど冷たい春の土には

7/8
前へ
/8ページ
次へ
 仕事中は、ずっと彼女のことを考えていた。仕事を終えて家に帰ってくると、もちろんなのだが水槽に彼女はいなかった。水槽の水はすべて抜いてしまったので、空のガラス箱がそこにあるだけだった。私は強烈な違和感をそこに覚えた。家にいても、エアーポンプの音が聞こえない部屋は静かすぎた。目をやっても、彼女の姿はなかった。私はそこで初めて、寂しいと思った。  私は彼女を支配していたつもりでいた。一生隔絶された世界に閉じ込めて、私だけが彼女の接点で。エサをやり、掃除をし。彼女の生死はいつも私が握っていた。彼女が吸う酸素すら、私が管理していた。私は彼女の支配者だったのだ。  だけれども、思い返すとそれは逆だったのかもしれない。実際のところ、彼女が私を支配していたのだ。彼女が私に餌をやらせ、呼吸を管理させ、生命を維持させていたのだ。だから彼女の支配から逃れた私は、どう生きて行けばいいかわからず、こんなにも困惑している。いや、私はまだ彼女の支配下にあるのだ、彼女が死んだ後ですら。  空の水槽を見ると、私は彼女を思い出す。テレビで魚の映像が流れるたび、私は彼女を思い出す。食事で箸を使い、口に含むたびに彼女を思い出す。道を歩き、呼吸をし、瞬きをし、そのたびに彼女を思い出す。  次の週になっても、私はまだ彼女を探していた。山を見るたびに、私は彼女を思い出すのだ。彼女を埋めたのは、ふもとのあの辺だったのだろうか。それとも、山頂のあの辺だっただろうか。私が目で彼女を探していると、私はそれに気づいた。裏手の山の山頂付近に、一本だけピンクの木があるのだ。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加