1 再会

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1 再会

 その駅に降り立ったのは、何か特別な意味があったからではない。単にその駅まで乗れる分の金しか持っていなかったからだ。せめてあと八十円持っていれば運命は交わらずに済んだのだと思うと、乗る前に自販機で買った百円の缶コーヒーが憎らしい。  ガコン。空になった缶をゴミ箱に投げ入れて、寒風吹きすさぶホームの階段を上っていく。人ごみ。喧騒。ひっきりなしのアナウンス。人の熱気。人の群れの中にいると安心するし、不安にもなる。この中にいれば俺も「人間」の仲間になれたような安心感と、この中にあってこそ実に己の異質さを認めてしまうような。  まあなんにせよ。そこまで俺は感傷的でもなければ繊細でもない。神経は図太いほうだ。その神経の図太さのせいで、パーカーのポケットの中の二十円――全財産を握り締めて見知らぬ駅に降り立つ、なんて無様な事態に陥っているのだが。 「……どうすっかね」  口の中でもごもご呟いてみれば、いっそう惨めになった。これから、どうしようか。行く当ては勿論ない。行く当ても、頼る人間も、それどころかいていい場所も、ない。息苦しかった。顔をうずめていたグレーのパーカーから顎を出す。ぷは、と息をすれば、新鮮な空気と一緒に音が耳をくすぐった。 「ピアノ?」  明らかに有線のBGMではない。生音だ。確かなピアノの音が駅のどこかから聞こえてくる。ピアノの音は嫌いだ。嫌なことを思い出す。俺の人生はつまらないことと腹の立つことと惨めなことばかりだったけれど、その中でもいっとう嫌な記憶がピアノだ。  弾いているやつはどこの誰だ。ぶっ飛ばしてやる。そう思って音のほうへ足を向ける。ちょっとした人だかりが出来ているのですぐに場所は分かった。 『ストリートピアノ どなたでもご自由に演奏ください』  そんなポップが近くの柱に貼ってある。ピアノ本体も、弾いている本人も見えない。不本意ながら大きくはない体を人混みに滑り込ませて、人だかりの前に出る。そして、足元から床が崩れ去るような錯覚を起こした。  ピアノを弾いている若い男。俺はその男を知っている。知っているどころじゃない。俺の「嫌」なピアノの思い出にまつわる張本人。見た目は若いがあれから八年も経っている、俺が十六になったのだから、向こうは三十を超えているはずだ。だというのにあの日からあまりにも変わらない。風もないのにさらさら揺れる細い黒髪。薄い肩。長い手足。綺麗すぎるのに女性っぽくはない指先。まるで慈母のように柔らかく美しく伏せられた、瞳。  俺は立ち尽くしていた。あの男が目の前にいる。かつて一度だけ俺に聴かせてくれたピアノを俺の目の前で奏でている。これは、何だ。奇跡? 運命? だとしたら最悪だ。  もう二度と会いたくなんてなかった。嘘。本当は会いたくて会いたくて仕方なかった。だからこそ会いたくなかった。だからやっぱり嘘じゃない。  演奏が終わった。辺りからわっと拍手が起きる。  男は椅子に手をついて立ち上がると、背もたれにかけていたトレンチコートをゆっくり羽織る。優雅なひと時が終わったのだと悟って散り散りになる人の中で、俺だけがただ一人立ち尽くしていた。袖の位置を確かめながらゆっくりゆっくりコートを羽織るのを、じっと見続けている。  視線、というものには感触があるのだろうか。男はボタンを探していた手を止めて、ふと顔をこちらに向けた。だけれど彼は俺を「見て」いるわけではない。そのことを俺は知っている。 「……誰かいますか?」  声まであの日のまま。俺は数歩、男に近寄った。  すぐ目の前に立つ。随分と頭の位置が違う。彼が大きく見えていたのはかつての俺が小さいガキだったからだと思っていたが、そもそも向こうの身長が高かったのだと、この歳になったから初めて気づく。だが随分細い。それも昔から変わっていない。 「前に弾いてくれた曲と違うんやね」  俺は言葉を発した。声が震えないように、腹の底にぎゅっと力を入れながら。  男は首をかしげる。声に覚えがないのだろう。それはそうだ。最後にしゃべったとき、俺は声変わりの初期にも達していない、八歳のチビだった。 「前にどこかで? 済みませんが僕は……」 「目が見えないことくらい知っとぉよ。やけん、『あの日』俺のこと見えないフリしたんやろ?」  男の体が強張る。俺はニタリと笑った。笑ったところで、彼には見えないのに。 「きみ……は」 「久しぶり、健治くん。俺のこと覚えとぉ?」  まあ、忘れたなんて言わせないけど。いっそ忘れられたらよかったんだ、お互いに。ひそかに固唾を飲む俺の前で、健治くんの綺麗な唇が動く。 「……怜央(れお)」  はあ、最悪。
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