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2 追憶ー3
夏休みに入る前日だった。明日からごはんをどうしよう。さすがに不安になった俺は、母親に尋ねたのだった。明日からごはんどうするの、と。
思えばいつも仕事にいっている深夜の時間帯に、母親が家にいること自体がおかしかったのだ。俺の知らないところで色々なものが崩壊していることに、ガキの俺は一切気づくことができなかった。
あのとき母親は俺に何と怒鳴ったのだったか。
お前の世話なんてしていられるか。
お前がいなければもっと何とかなったのに。
なんで生まれてきたんだ。
腹ン中で死ねばよかったお前なんか。
そう。確かそんな感じ。一頻り叫び終わると、母親は灰皿を投げつけてきた。確か眉間に当たったのだと思う。プラスチック製のそれは痛くはなかったけれど、まだ先端が赤い吸い殻がいくつも残っていて、顔や手が熱かった。
今は母親に関わってはいけない。本能的に感じて家を飛び出そうとしたとき、足首を掴まれて畳の上に転げた。どうしてそんなことをするのか分からないままに母親に押さえ込まれていて、とても苦しかった。詳細がぼやけている。多分、首を絞められた。もっともそれは俺の被害意識が作り出した妄想かもしれない。
何にせよ、殺される、と思った。とにかく必死でもがいて逃げ出した。母親を殴ったかもしれないし蹴ったかもしれない。生き延びるのに必死だったことだけは確かだ。靴をはいている余裕もなく、裸足のまま夜の町をひたすら走った。
他に行くところのない俺は、とりあえずいつもの公園に駆け込んだ。勿論誰もいない。しばらくの間滑り台の影でうずくまっていたけれど、公園の前を車や自転車が通るたびに怖かった。母親が追ってきたのかもしれないと思った。もっと遠く、もっと安全なところへ逃げないといけない。俺の小さな頭の中にはもう健治くんのことしかなかった。健治くんの腕の中はこの世で一番安全で、一番暖かくて、一番幸福だ。一度だけ連れられて歩いた道を懸命に思い出しながら辿った。
何度も道を間違え心が折れかけながらも、その家にたどり着いたのは奇跡だった。古いけれど大きくて綺麗な家は静まり返っているものの、窓からは明かりが漏れていた。いる。
インターホンを押した。反応がない。玄関越しにピンポンという音は聞こえるのに、誰が出てくる気配もない。何度も鳴らした。健治くん、と名前を呼んだ。助けてと声を張り上げた。だけれど何も変わらない。
健治くんも、その家族も、誰も出てきてはくれなかった。俺は泣き叫んでいた。たすけて、健治くん、何度も叫んだ。殺されそうになったことや夜の闇が怖くて泣いていたわけではない。自分が惨めで仕方なかった。家にも、学校にも、この世のどこにも俺の居場所はない。あの腕の中を除いては。健治くんに見放されたら、俺が生きていていい場所はどこにもなくなる。
なのに、何度呼んでも出てこない。健治くんは、俺を助けてくれなかった。
真夜中に子どもが大声で泣いていたらさすがに近所の人が気づく。よく分からないままに俺は警察に保護されていた。そこから先のことは、曖昧。
色んな場所に連れていかれて、色んな人に話を聞かれて、だけれど俺は健治くんのことを絶対に話さなかった。なぜあの家の前にいたと聞かれても、大きなおうちだったから、と答えた。
言いたくなかった。
あの清廉な人を警察だなんだの俗世に関わらせたくなかった気持ちが少し。残りは、言えば自分が余計惨めになるからだった。この世で唯一の味方に助けてもらえなかった自分のことを、口にはしたくなかった。
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