3 結末

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 ふと。ピアノの陰に高そうなオーディオコンポがあることに気づいた。ふらふらと歩み寄って、その前にぺたりと座る。冷たい床が火照った体に気持ちいい。  電源を入れる。よく分からないままに再生ボタンを押せば、キュルル、と円盤の回る古い音がして、ゆるやかなピアノ曲が流れだした。俺はこの曲を知っている。トロイメライ。俺の知っている唯一のクラシック。  どうしてアンタはこの曲を流していたの。  聞きたい相手は、背後のソファで深い眠りについている。夢、という意味のタイトルだと聞いた。彼は今どんな夢を見ているのだろう。  音もなく稼働していた空気清浄機のせいで揺れた空気が、コンポの更に陰に何かがあることを教えてくれた。カサカサと小さい音がしている。手を伸ばす。紙のようなものに触れて、それを持ち上げた。  何の変哲もない大学ノートだった。中を開く。字を習いたての子どものような乱れた字が出てきてぎょっとした。 『ぼくのめは いよいよかんぜんに ひかりをなくそうと しているらしい』  そう読めた。つまりこれは。 「健治くんの手記……?」  子どものような字は、そうではない、見えないのに修練によって身に着けた健治くんの精一杯の字。脳内で、あの優しい声に変換して読み進める。 『僕の目はいよいよ完全に光を失おうとしているらしい。その前に、この想いを綴っておきたい』  めくる。枠線を完全にはみ出した字は、一ページに十数行しかない。 『僕はあの頃、生きることがつらくなっていた。視界はどんどん暗く沈んでいく。大好きなピアノの鍵盤も白鍵と黒鍵の区別がいよいよつかない。月に一度は肺の発作で家族に迷惑をかけ、誰が僕の生を望んでいるのだろうという無力感にとらわれていた。そんなときにあの子に出会った。あの子が全力で僕を求めてくれるのが、きっと心地よかったのだと思う。初めはエゴだったかもしれない。空っぽな僕の心を満たす置物だったかもしれない。だけれどあの小さな存在を本当に守りたいと思うようになってから、僕は生きることに意味を見出すことができた』  曲が終わる。リピート再生に切り替えた。 『なのに僕は一番大事なときに彼の手を掴めなかった。ずっと順調だったから油断していたのだ。夜半に発作に見舞われて、病院に担ぎ込まれた。そこまでの大きな発作は本当に久しぶりなので、祖父も祖母も病院に一晩中付き添っていてくれた。その晩に子どもが僕の家の前で保護されたということは、退院してから聞いた。近所の人が通報してくれたのだという。怜央だとすぐに分かった。その晩彼は、僕に助けを求めていたのだ』  息が苦しい。空気清浄機はずっと回っているのに、空気がひどく澱んでいる気がした。 『その日以来、怜央は公園に来なくなった。僕に失望してのことかもしれないし、もしかしたらもうこの近所にはいないのかもしれないとも思った。あの日のことを謝りたかったし、あの子を家に迎え入れたかった。そこで初めて気づいた。僕は怜央の家の場所も知らない。電話番号も、どこの小学校に通っているのかさえも知らなかった。けれど今思えば、市内の小学校を片っ端から当たることはできたはずだ。公園の近くで「藤田」という名前の家を一軒一軒探すことも、きっとできた。それをしないで諦めてしまったのはきっと、逃げだったのだろう。あの子に合わせる顔がない、そんな自分勝手な都合だった。  あの町を離れることになってからもずっと、怜央のことを考え続けた。あの子は今どこでどうしているだろう。飢えてはいないだろうか。凍えてはいないだろうか。あの子のことを忘れた日は一日もなかった。あの子は今、無事に育っていてくれたならば十五歳になるはずだ。義務教育を終えたら彼はどうするのだろう。僕に彼のことを心配する権利なんてないのは分かっている。本当は会って謝りたいけど、そんな贅沢は言わない。せめて、理不尽や不条理に苛まれず、普通の十五歳の少年が享受すべき愛情や庇護を受けていてほしい。あの子の人生が健やかであることを願ってやまない』  いつの間にか雨が降っていた。紺色のような紫のような深い複雑な色に沈む窓の向こうとは裏腹に、部屋には柔らかいメロディが充ちている。もう寒さは感じなかった。  青く染まる部屋の中。白い体が横たわっている。俺はふらふらとその体に近寄ると、傍らに座って、胸に顔を埋めた。何も聞こえない。彼の肌は、冷え切っているはずの床よりも余程冷たかった。  彼の名前を呼ぼうと息を吸って、呑み込んだ。その名を口にするこどは二度と許されない気がした。
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