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場所を変えよう、と健治くんが言ったのは、話が穏便には済まないことを予期してのことだっただろう。目が不自由なことを感じさせない足取りですいすい街並みを進む健治くんの背中を、じっとりと睨みつけながら追いかける。
健治くんばかり見ているうちに足は街中を抜け、住宅地を通り、閑静な、という形容があまりにも相応しい一画にある自然公園を歩いている。木々の下を歩いていると、陽が遮られてひどく寒さを覚えた。季節は秋という一瞬をあっという間に終えようとしているのに、俺は薄っぺらいTシャツ一枚の上に裏地のないパーカーを羽織っているだけだった。皺ひとつないワイシャツの襟をきっちり詰め、毛玉ひとつないカーディガン、汚れひとつないトレンチコートに身を包んだ健治くんと、いかにもみすぼらしい俺が連れ立って歩く姿は、人々の目にどう映っただろうか。そんなことに今更気づいた。
公園を抜けた先に、行き当たるようにぽつりとマンションが一棟建っている。どうやらあれが健治くんの住まいらしい。エントランスに入り、タッチパネルに手のひらを乗せる。それだけで自動ドアが開いた。共にエレベーターに乗り込む。十階まであるようだが、健治くんは迷うことなく八階のボタンを押した。まるで手に目がついているようだ。
ほんの僅かの沈黙。何か言おうか。口の中で舌をもごもごしてみるが、言葉は一向に浮かんでこない。いや、本当はこの八年間ずっと言いたかった言葉がある。
(どうして、あのとき……)
ぽん。控えめな電子音。ドアが開く。八階にふたつしかない部屋の片方のドアが開いて閉じるまで、俺も健治くんも何も言わなかった。
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