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「上がって」
ようやく放たれた言葉に応じて玄関先で靴を脱ぐ。昨日から替えていない靴下はひどく汚れていた。どうせ健治くんには見えないのに、一瞬ためらう。だがこんなところで止まってもいられない。恐る恐る踏んだ床はひどく冷たかった。
玄関からまっすぐに廊下が伸びて、右に二部屋、左にドアのない洗面所と、手洗いだろうか。健治くんを追って正面のドアをくぐる。どうやらそこがリビングらしかったが、対面キッチンとダイニングテーブルの他には、ソファくらいしかリビングらしいものは置いていない。代わりに部屋の大部分を占めているのは、埃ひとつなく黒々と光るグランドピアノだった。
「ソファに掛けて」
「一人暮らしなん?」
「うん。毎日午前中には手伝いの人が来るけれど」
相変わらず浮世離れした生活を送っているようだ。勧められるままにソファに腰を下ろす。健治くんはコートを脱いでテーブル脇の椅子の背にかけると、そのままキッチンへ入っていく。何かのスイッチを入れる音がしたので、お湯か何かを沸かしているらしい。お茶を出してくれるならば有難いことこの上ない。電車に乗る前に飲んだ缶コーヒー。この二日間で俺が口にしたのはそれだけだった。
「……驚いたよ。まさかこの街できみに会うだなんて」
「俺も」
かつて俺と健治くんが住んでいた街からは、どれくらい離れているのだろう。当時はあまり街から出たことがなかったのでピンとこないが、新幹線でも数時間はかかるのではないだろうか。
「今何しとんの」
「ピアノを弾いたり、曲を作ったりしているよ。昨年ちょっと話題になった犬の映画、知らないかな。あれの曲は全部僕が作ったのだけれど」
「俺、テレビも映画も見ないけん。でも、へえ、すごかね」
音もなくすすすと健治くんがキッチンから出てきて、テーブルがないので直にマグカップが手渡される。てっきり洒落たブランドものの陶器が出てくると思っていた俺は、庶民的なマグカップにしかも犬の絵が書いてあって笑ってしまった。よく見ると端のほうに©なんとか、と書いてあったので、もしかしたらその映画のグッズとやらなのかもしれない。
「怜央は?」
ソファはひとつしかないので、健治くんが隣に座る。体と体が触れない程度の距離。なのに、空気を伝ってほんのりと健治くんの温度を感じる。中身も確かめずにマグカップを一口すすった。何だこれ。紅茶とも日本茶ともつかない変わった味。まずくはない。温かさが体に沁みる。そういえば暖房はつけないのだろうか。部屋がひどく寒い。
半分ほど一気に飲んで、それからようやく俺は口を開く。落ち着いた態度をとっているつもりだったが、言葉を発しようとした口の端はにやにやと歪んでいる。
「俺が今何してるかって? 聞くん、それ」
「……言いたくないなら」
「別に。俺が一番惨めだった頃を知っとるアンタに隠しても意味なかとやし」
聞きたいなら言うけど。ぶっきらぼうに言えば、間を空けずに健治くんが「聞かせて」と言った。
「この八年間、きみがどうしていたかを知りたいんだ」
八年。その日をどうにかしのぐことだけ考えて生きてきて、もうそんなに経った。さて、どこから話そうか。記憶を手繰る。やはり健治くんと出会ったあの頃からだろうか。そこで初めて俺の意識は、八年前――まだ自分がどれだけ惨めな世界に置かれているかも分かっていないほどガキだったあの頃へと、遡っていった。
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