2 追憶ー1

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2 追憶ー1

「きみ、まだおうちに帰らないの」  陽が落ちるのが遅い時期だったから、あのとき児童公園で声をかけてきた健治くんの姿はよく見えたし、今でもよく覚えている。初夏だというのに長袖のシャツを着て、さらさらの黒髪や白い肌には全然汗なんかかいてなくて、なぜか俺はそのとき学校の図書室で読んだ「よだかの星」を思い出していた。きっと、綺麗な鳥や雄々しい鳥を前にしたときのよだかに自分を重ねていたのだと思う。  今ならば、その綺麗すぎる男と自分が同じ世界に生きていないことを察して絶対に関わらない。だが俺はそこまで空気が読める年齢ではなかった。まだ小学校三年のガキだったのだ。そのときの俺に分かったのは、どこか危なっかしい足取りで歩くその人は目が不自由なのだろうということだけだった。 「おかあさんがお仕事いくまで帰れんけん。邪魔やけん帰ってくんなって」  判断力の鈍いガキは、みっともない家庭事情をありのまま答えてしまった。俺は三年生にもなって、保育園の子どもがするような砂遊びが好きだった。それを見られたことのほうが余程恥ずかしくて、歪な形のトンネルを慌てて蹴崩すほうが大事だったのだと思う。 「そう。でももうじき暗くなるよ」 「暗くなるのなんか見えんくせに」  率直に言ってやった。罪悪感もなければ、嫌味のつもりもなかった。本当に思った通りに言ったのだ。そうしたら健治くんは砂場のそばにちょこんとしゃがんで「そんなことないよ」と笑ったのだった。  その儚くも眩しい笑顔を見たときから、ずっとずっと年上のその人に俺はもう心奪われていたのだと思う。俺の周りに、そんな風に綺麗に笑う人はいなかった。 「目で見えなくても空気の変化が分かるんだよ。温度が低くなったり、風の吹き方が変わったり、夕方の匂いがしたり」 「夕方の、におい?」 「うん。乾いていて、花よりは草に近くて、あとほんの少し、色んなおうちの夕飯の匂いが混ざっている」 「おれんち今日カレー」 「いいね」 「ほとんど毎日カレー。ごはんにのせて、チンして食う。ごはんは毎朝俺がたくけん」 「……明日もここにいる?」 「学校ある日は毎日おるよ。おかあさん毎日お仕事やけん」 「そう。じゃあ明日も来るね。きみのお名前は?」  すごく自然に尋ねてきたので流れで答えそうになったのを、寸でのところで呑み込む。知らない人に名前やおうちのことを教えちゃいけません、という担任の言葉を今更ながらに思い出したからだ。だけれど、ん、と優しく促してくる健治くんの微笑みが眩しくて、ついには押し負けた。 「……怜央」 「レオ?」 「ふじたれお。でもみんな怜央って呼ぶよ」 「じゃあ僕もそう呼ぼうかな、怜央」 「おにーさんは」 「健治。中原、健治」 「けんじくん」 「うん」 「健治くんは、こっちの人じゃなかとやね。喋り方が違うけん」 「先月関東から引っ越してきたんだ。こっちに祖父母が住んでいてね。関東ってどこか分かるかな?」 「わかんない」 「じゃあ明日地図を持ってきてあげる」  差し出された小指を、八歳の俺は持て余した。ただでさえ汚い俺の手は、砂遊びで真っ黒だったのだ。それに対して健治くんの手はあまりに白かった。きっとこの世の汚れに一切触れずに生きてきたのだろうなと、幼い俺でも本能的に理解した。  そんな俺の戸惑いに気づいたのだろう。健治くんは反対の手を伸ばしてくると、しゃがみこんだ俺の膝に触れた。それから足をたどって、腹をたどって、肩、肘、そしてようやく手を見つけると、そっと握った。  二十代をとうに超えている青年が、男児とはいえ小学生の体にそのように触れている様は周囲からどう見えたのだろうとか(もっともそのとき俺の記憶が正しければ、公園には誰もいなかった)、今になって思うことはたくさんある。だけれどその手はあまりにも温かくて、きゅ、と絡めた小指が細くて。あまりの眩しさに俺は元より細い目を余計に細めていた。 「また明日もここでおしゃべりしよう」  それが八歳の俺と、二十三歳の健治くんの奇妙な出会いだった。
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