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2 追憶ー2
夏休みが近くなっていた。その日は絵の具セットを持って帰らないといけなくて、重たいので公園に行く前に一度家に置きに帰った。その際玄関先に母親のではない明らかに男物の靴があるのを認めた俺は、玄関先に絵の具セットを置いてすかさず逃げた。
公園で砂を積んでは崩して積んでは崩してしていると、いつものように健治くんが姿を見せる。あまりに暑い日だったので、その日は珍しく半袖のポロシャツを着ていたのを覚えている。
俺は健治くんの長身を認めるとすかさず駆け寄って、手足が汚れているのも忘れて彼の脚に抱き着いた。そのとき初めて俺の身長が健治くんの腰までしかないことを知った。
「どうしたの。今日は甘えんぼさんだなぁ」
「今日帰りたくない」
「どうして?」
「家に知らん人がおる。そういうとき帰ると怒られるけん」
「そう」
健治くんは下手に慰めの言葉をかけたりはしなかった。それがどれだけ俺の救いになったか分からない。ただただ屈みこんで俺をぎゅっと抱き締め、そのまま抱き上げてくれた。三年生にもなって大人に抱っこされるなんて恥ずかしかったけれど、公園には他に誰もいない。脇の道路を時々車が通るだけだ。俺は健治くんの真っ白で石鹸の匂いがするシャツに一生懸命すがりついていた。惨めな俺のところに降ってきてくれた幸福を放したくなかった。
「じゃあ僕のうちに来る?」
「健治くんの……うち?」
嘘のような話だが、俺は健治くんにも「家」があるということを認識していなかった。健治くんはあまりに綺麗で、儚げで、俺と同じように家があって家族がいる普通の人間だという意識が希薄だったのかもしれない。
「うん。ピアノを聴かせてあげる約束をしただろ」
「行く。聞きたい」
「決まり。おうちの人に連絡しておこうね。おうちの電話番号が分かるものはあるかい?」
「お母さんの携帯……でもどうせ出らん」
「留守電を入れておくよ。心配するといけないからさ」
「心配なんてせんよ!」
思わず声を荒らげていた。違う、こんな態度をとりたいわけじゃないのに。なのに抑圧され膨れあがった言葉たちは、一度堰を切ってしまったら激流のように喉へ押し寄せた。
「お母さん、俺がおらんかったらもっと生活が楽だったのにっていつも言う。お父さんはおらんくなったのになんでお前がおると、って俺を叩く。先生はおうちの人にいってきますとただいまを言いましょうって言うけど、ただいまって言ったら帰ってくんじゃねーよって! 俺が帰らなくても心配なんかせんよ……俺がおらんほうが、お母さん喜ぶけん……」
言いたいことを言い終えたときには息が切れている。止めたいのに、目からはぽろぽろと雫が零れ落ちては健治くんのシャツを濡らした。健治くんは多くを言わず、俺の背中をぽんぽんと叩いては「うん、うん」と頷くだけだった。
しがみついて離れない俺を抱えたまま、シーソーの上に放置したランドセルを持って、健治くんは住宅街をゆっくり歩いた。目の不自由な人が小学生を抱えて歩くのはどれだけ大変だったのだろう。
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