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公園から学校へ繋がる曲がり角を通り過ぎて、渡ったことのない橋を渡って、見たことのない街並みを歩く。車がたくさん通る大きな道路。行ったことのないお店。歩いている人の雰囲気も何となく違う。
大きな道路から小さい路地へ入って、何回か曲がる。周囲には大きな家ばかりが並んでいて、その中のひとつの前で健治くんは足を止めた。インターホンを鳴らす。
「僕です。帰りました。手が塞がっているので開けてもらえますか?」
家の中から出てきたのは上品そうなおばあちゃんで、健治くんに抱えられた俺を見ると「あらあらあら」と高い声を上げてにっこり笑った。目尻の下がり方が健治くんによく似ていた。
そこからのことは少し曖昧だ。目にする何もかもが新しくて、俺の小さな頭は情報を処理しきれなかったのだと思う。とにかく健治くんは俺にピアノを弾いてくれた。健治くんの家にはグランドピアノがあった。
白いカーテンを引いた窓から夕陽が差し込んでいて、白木の床が朱色に染まっているのが綺麗だった。ぴかぴかしたピアノの前に座って優しく優しく鍵盤を叩く健治くんの指がきらきらしていた。俺は学校の先生以外がピアノを弾いているのを見るのが初めてで、それが上手いとかどうとかは全然分からなかった。多分今聞いても分からない。だけれどひたすらに、ピアノを弾く健治くんは綺麗だった。この人はピアノを弾くために生まれてきたんだな、と素直に思える姿だった。
「なんて曲?」
「トロイメライ。シューマンという人が作った曲」
「知らん」
「子どものために作られた曲だよ」
「知らんちゃけど、好き」
「よかった」
もう一度同じのを聞きたいというと、健治くんは何度でも弾いてくれた。弾いているところをもっと見たいといえば、弾きづらいだろうに俺を膝の上に乗せてゆっくりと弾いてくれた。
「鍵盤に手を載せるときはね、手のひらにひよこを包むように優しくふんわりと載せるんだ」
「ひよこ?」
「うん。やってごらん……ああ、ひよこさんが潰れちゃったな」
小一時間はそうやって遊んでいた。その日は泊まっていっていいと言うので、健治くんと一緒にお風呂に入って、健治くんのおじいちゃんおばあちゃんと一緒に夕飯を食べて(確かビーフシチューだった気がする。とても美味しかったはずなのにあまり覚えていない)健治くんのベッドで一緒に眠った。夢のような時間だった。
目の不自由な健治くんが動きやすいようになのだろう、あまり物の置かれていない部屋の真ん中にある大きなベッドで健治くんの腕に抱き締められていると、この世の何よりも安全な場所にいるような気がした。
「健治くんはどうしてこんなに優しいと?」
眠りに落ちかける前。きちりとパジャマのボタンを閉めた健治くんの胸に顔をぐりぐりと押し付けながら聞いてみた。そういえばあのとき俺に出されたパジャマは誰のものだったのだろう。健治くんのお古だったのだろうか。
「優しいかな?」
「うん。お母さんよりも先生よりもいっとう優しい」
「そうだな……僕は小さいときからずっと病気がちでさ」
「病気?」
それは子どもにとってはひどく衝撃的な事実だった。死んでしまうのだろうか、そんな恐怖すらよぎったことを覚えている。健治くんは俺を安心させるように何度も頭や背中を撫でてくれた。
「肺がちょっとよくなくてね。目もこれだし、あまり家から出られなかったんだ。ずっとひとりぼっちだった。だからかな、きみをひとりにしたくないんだ」
「……ずっと一緒におってくれる?」
「うん。きみが望むならば」
「へへ、健治くんだいすき」
「僕もだよ。怜央、元気に大きくなってね……」
大好きな人の匂いと温もりに包まれて眠りに落ちた。あの夜が俺の人生で一番幸せなひと時だった。
そこからはひたすら、落ちていくのみだったから。
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