Lesson 10. side by Heath Andrews

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 帰国してから三ヶ月が経とうとしていた。  この小さな町でも、そこかしこで春の気配がちらほらと見え隠れし始めていた。  僕の周りには、日本に行く前と全く変わらない日常が当たり前のように戻ってきていた。  時差ぼけのようなぼんやりとした感覚が、帰ってきてからずっと身体にこびりついてしまったかのように残っている。  あの日、僕はまるで逃げ出すようにして日本を出た。でももし、最後に彼女の顔を見てしまったらいろんな決心が鈍ってしまうのは目に見えていた。  離れてしまえば消えてしまうと思っていた淡い色をした想いは、日に日に鮮やかな色に染まり、無遠慮に僕の胸を締め付けてくる。  この想いは、どうすれば消えてくれるのだろうか。  🇬🇧 “ 昼間っから呑んだくれかよ ”  ジョージが呆れたようにそう言いながら、カウンターの向こう側からビールの入ったジョッキをテーブルの上に乱暴に置いた。 “ 今日は休みなんや、放っとけ”  帰国してから、平日はずっと忙しい。そんな慌ただしい一週間をなんとか終えて、たどり着いた休日をどう使おうが僕の勝手だ。とは思いながらも、呑んだくれることしかすることがない自分もどうかと思う。 “ こんな昼間っから来てくれるような客なんておらんのやから、むしろありがたく思え ”  僕のめちゃくちゃな理屈に、ジョージは気を損ねることもなく肩を揺すりながら笑い始めた。こいつは、見た目がいかつい割りには、気性は緩い。 “そりゃ、違いねぇな。それはそうと、メグが愚痴ってたぞ。お前が相手してくれないってよ ”  メグって誰だよ。  少し記憶をたどると、何日か前にここで声をかけて来た娘がそんな名前だったような気がしてきた。とは言っても、顔なんて朧げにも浮かんでこない。  どちらにしても、今はガールフレンドとか恋人とか考えるような余裕は身体にも、心の中にも、見渡す限りどこにもなかった。 “ 今は、そんなん、いらん ” “ なんだよ、日本に忘れられない人でも置いてきたか?”  ジョージは興味津々といった感じでテーブルに身を乗り出してきた。どこか、恋バナを聞きたがる女子のようなテンションに少し嫌気が差してきた。 “そんなんやない。ただ、……面倒なだけや ”  僕が無理やり話を切り上げてカウンターテーブルに突っ伏すと、ジョージの足音は呆れたような音を立てながら遠ざかっていった。  天井近くにあるテレビの話し声しか流れていない店内に、ジョージの何やら作業をする音がまるで子守唄のように聞こえてきた。  ビールに溶けたアルコールも手伝ってか、次第に眠気がそろそろと近づいてきた。  重くなってきた瞼を閉じると、あの日、最後に見た彼女の泣き顔がぼんやりと浮かび上がってきた。  僕の頰を叩いた時のあの泣き顔が、まるで自分が叩かれたような痛々しい顔でホロホロと涙をこぼし始めた。  僕にしてやれることは何もない。  その涙を拭うことだって、もうできない。  僕は無理やりその虚像を追い払った。  彼女がいたその場所に残ったのは、ぽっかりと大きく空いた空虚な穴だった。  微睡んでいく意識の端っこで、カランカランとドアベルの音が響いた。  ドアの隙間から入り込んできた、春を孕んだ柔らかなそよ風がそっと頰をなぞっていった。
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