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私はもう一度ヒースの背中に頬をくっつけた。シャツの柔らかな生地の隙間から彼の体温がじんわりと伝わってくる。
「真島さんに教えて貰った住所に行ったら、管理人さんらしい人がここだろうって 」
「英語で、か? 」
「今はね、翻訳アプリって言う人類の利器があるんです 」
ヒースは、ははっと軽い笑い声を宙に投げた。
「お前が来てしもたら、僕がしたこと、全部ぱぁやんか 」
彼は腰にまわされた腕をほどいて、どこか不満げにそう言いながらこちらに振り向いた。その顔に瞬時に驚きが浮かんだ。
「なんや、切ってしもたんか 」
その理由を知ってか知らずか、彼は目を細めながらどこか申し訳なさそうにそう言って、顎の下辺りで切りそろえられた私の髪を優しく撫で始めた。
「ヒースのことは忘れようって思って。でも、結局ダメだった。ヒースはズルいよ。一方的に、こんな物だけ残して……、 」
「こんなもんて、なぁ。そんなんでも結構したんやで 」
ヒースの長い指が、私の首にかかったチェーンをどこか躊躇いがちに弄ぶ。何かを言いたくて、でも何を言えばいいのか分からない。そんな感じがくすぐったい。
長い指が首筋からチェーンをなぞり、小さなシルバースプーンをそっと摘んだ。
「それで幸せになれなんて、他力本願過ぎだよね 」
「僕には無理や思たんや。香里は日本におった方が幸せなんやないかって……、」
彼のどこかバツの悪そうな表情の隙間から、今にも泣き出してしまいそうな、あの日ヒースが見せた曇り空のような顔が覗いた。
ヒースが指の間をすり抜けて、また私の目の前からいなくなってしまいそうな気がしてきて、私は慌てて彼の背中に腕を回してきゅうっと力を込めた。
「私、ヒースに幸せにしてもらおうなんて思ってないから 」
「香里? 」
「自分の幸せくらい自分でなんとかできるから。だから、もう、突然いなくなったりしないで 」
次第に湿っぽさを帯びてくる言葉を呟きながら、私は彼に回した腕にぎゅっと力を込めた。
彼の胸から頰を伝ってトクトクと優しい音が響いてくる。くっくっと堪えたような笑い声が頭の上に落ちてきた。
「なぁ、香里、英語ペラペラんなる手っ取り早い方法って、なんか知ってるか? 」
低く、かすれ気味の声が囁いた。
とっておきの秘密を教えてくれるような、ちょっともったいぶった響きに胸が弾む。
私はヒースに抱きついていた腕を緩めて彼の顔を見上げた。どこまでも澄み渡ったブルーの瞳の中には、あの頃とは明らかに違う私が映っている。
あの時の空っぽの私は、もうどこにもいない。
私は答えが見つけられずに、じっとヒースを見つめた。
ヒースはなかなか答えを教えてくれない。私の顔を見つめながら、くつくつと悪戯っぽい笑いをこぼし続けている。
ヒースは両手で私の頰を挟んだ。彼の顔がゆっくりと近づいてきて思わず身構える。
キュッと目を閉じた私の期待をすっと通り越して、彼はその唇を私の耳元に寄せた。
「香里、好きやで 」
甘く、柔らかな声が耳元をくすぐる。
その余韻に甘えていると、優しい、躊躇いがちのキスが頭の上にふわりと降ってきた。
私は顔を上げてヒースを見上げた。
初めて見るような、甘ったるい色を纏ったブルーの瞳がそこにあった。
「もう一回、ちゃんと言って 」
そう言ってヒースの瞳をじっと見つめると、瞬時に彼の顔が歪んだ。
その表情が薄っすらと赤く染まっていく。
「あ、アホか⁉︎ んなこと、何遍も言えるか⁉︎ 」
ヒースはそれだけ吐き捨てるように言ってスツールから降りると、私のスーツケースを引っ張って外の方に向かって行ってしまった。
「えっ? ち、ちょっと、 ヒース⁉︎ ま、待って ! 」
私は、こちらを見ながら苦笑いを浮かべているいかついお兄さんに軽く会釈だけしてヒースの背中を追いかけた。
慌ててヒースの後ろについて行く私の横を、春の匂いを孕んだそよ風がそっと駆け抜けて行った。
ふと見上げた空は一点の曇りもなく、どこまでも青く青く澄み渡っていた。
私はもう迷わない。
彼とならどこまでも、きっと世界の果てにだって歩いていける。
春が芽生え始めたイギリスの小さな街の片隅で、私と彼のあどけない未来が小さな小さな一歩を踏み出した。
🇬🇧 fin.
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