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朝。
私はベッドの上でその目を開けた。
「妙な夢だったな……」
そんな独り言を呟いて、パジャマから私服へと着替える。
目玉焼きにトースト。そしてコップ一杯の牛乳。
簡単な朝食を取り、リュックに麦茶の入った水筒を詰める。
靴箱の上に置いてある虫よけスプレーをポケットに入れる。
「行ってきます」
午前七時。
私は家を出発した。
生垣が並ぶ道。
車は滅多に通らない住宅街。
起きている住人は、そういない。
聞こえるのは鳥のさえずり。
コンクリートを擦る自分の足音。
リュックの中で、麦茶が波打つ。
駅に着き、電車に乗り込む。
乗客は、私以外誰もいない。
開け放たれたままの貫通扉から、3車両先の座席まで見通せる。
次の駅で、一人の杖をついた老人が乗り込んできた。
白くて長い髪を、お団子にまとめているおばあさんだ。
「相変わらず、朝が早いね」
隣に座ったおばあさんが私に言う。
「こうしないと寝付けないの」
私のその返答に、おばあさんは応えなかった。
聞こえなかったのかもしれない。
「降りなきゃ」
30分ほど電車に揺られ、私は下車する。
車内のおばあさんを振り返ることなく、私は改札口へと急いだ。
駅を離れれば、次に見えてくるのは山。
木は乏しく、頂上に一本生えているだけ。
なだらかで岩だらけの険しい山。
私は気合いを入れるため、リュックを背負い直した。
それが、午前八時四十五分のこと。
入山して、だいぶ経った。
水筒の麦茶で喉を潤しながら、黙々と登り続けるだけ。
ふと、空に視線をやる。
頂上から、開かれた水色の傘がふわりふわりと降りてくる。
その傘の柄の部分には、大きなカゴが括り付けられていて、中には太った中年男性が眠っている。
カゴ付き傘は一つだけではなく、いくつもいくつも、色も様々に、街の方へ向かって飛んでいく。
中身は皆同じように、眠った人間が一人、乗せられている。
「いいなあ、裕福な人は」
額から吹き出る汗を拭いながら、私はそんな風にぼやいた。
しばらく進むと、エスカレーターが一つ現れた。
それは遥か先まで続いており、終わりは全く見えない。
最近できたらしい。
一度も見たことはない。
「動くのかな」
乗り口に近づくが、エスカレーターは作動しない。
ふと、エスカレーターの横の地面に目をやると、ぼこぼこと土が盛り上がる。
そこから伸び出てきたのは、何かの植物の芽。それも、相当大きな双葉の芽。
それはあっという間に私の背丈ほどまで育ってしまう。
姿は未熟な芽のまま。
蕾も、花も、実もならない。
双葉の裏側から、じわじわと水が染み出てきて、ボタボタと地面に滴る。
しばらく滴り落ちる水を見つめていると、突然双葉は咳き込んだような音をして痙攣を始めた。
私の顔全体に、染み出た液体が飛んでくる。
「お金、必要だよ。それ、乗りたいなら」
ぜいぜいと息を吐きながら、双葉の芽が言った。
ダラダラと、粘度のある液体が滴る。
「持ってない。お金なんて」
「そう。さようなら」
そう言って、双葉は勢いよく地中へと引っ込んで行った。
地面に残された拳ほどの穴。
膝をつき、覗き込んでみると、呼吸しているかのように風が吹き出たり、吸い込んだりしている。
立ち上がった私は、エスカレーターから距離を取るように後退り、そしてまた頂上を目指して歩き出した。
もうすぐ正午をまわる。
お腹が空く頃だ。
空腹のせいで、お腹が盛大にぎゅるぎゅると鳴り響く。
どうしようも無い空腹にため息が出る。
「呼んだ?」
すると、どこからかガガンボが一匹、私の腹まわりにやってきた。
「呼んでない」
鬱陶しくて、そのガガンボを手でやんわりと払う。
だが、ガガンボには私の言葉が通じないようだ。
また、お腹が鳴る。
「呼んだかい?」
また、もう一匹、ガガンボがやってくる。
腹の虫がなる度に、ガガンボは増えていった。
一時間後には何千匹も集まって、ガガンボの声しか聞こえなくなる。
「あーもう、うるさい。呼んでないってば」
私はポケットから虫よけスプレーを寄り出して、大量のガガンボ目掛けて振りまいた。
パタパタとガガンボは地に落ちていき、やがて私の腹まわりはとても静かになった。
訪れた静寂に一息吐いた時、頂上の大木がすぐそこに見えてきた。
山の上の一本の大木。
それを近くに感じてからが長かった。
もう何時間、その木を見上げながら歩いたのか分からない。
空はすっかり暗くなり、星がちらちらと瞬いている。
振り返ると、星空よりも一層光り輝いている街が見下ろせた。
青々とした葉っぱが、風に揺られて山のふもとまで吹き飛んでいく。
「こちらへどうぞ」
不意に駆けられたその声に、私はゆっくりとそちらに目を向ける。
いつの間にか、大木の目の前まで来ていた。
「整理券をお預かりいたします」
じわりと背中に、妙な汗が湧く。
色素の薄い髪と肌の、女の子だか男の子だか分からない小さな子供が、大木の根っこに座っていた。
「こんにちは? こちらへどうぞ?」
黙っている私を不思議に見つめながら、その子は言う。
真っ白なワンピースは、よく見るとキラキラ輝いている。
「整理券、ですか?」
自分よりも明らかに年下であるにも関わらず、思わず敬語になってしまう。
「はい。そうです。ここに来る人はとても大勢いますので」
私は周りを見渡す。
私以外、この山を登っている人物はいない。
木の幹を辿るように見上げる。
木の枝から、色とりどりの木の実が成っていく。
木の実は大きく育ち切ると、その色味が抜けていき、表面が透明になっていく。
その中身は、眠っている人間。性別、年齢は様々。
「……整理券、持ってないです」
すやすやと寝息を立てている人たちから、不意と目を逸らし、俯いて私はそう言った。
「お家に忘れちゃいましたか?」
「……はい」
嘘を吐いた。
家のどこを探しても、整理券なんか出てこない。
「そうですか。では、今回は特別に付与いたしますよ。さ、お手をお出しください」
そう言われ、私の胸に安堵の感情が広がる。罪悪感ももちろんあるが、そんなことを気にしていられないほど欲しているものが、手に入ろうとしていた。
「ありがとうございます」
私は両手を器のようにして差し出した。
「どうぞ。良い夢を」
そう言って、その子はワンピースのポケットから銀色の長いスプーンを取り出した。
私の両手に近づくたびに、スプーンの中に液体が溜まっていく。
オーロラ色に輝くその液体が、私の手の平に落とされた。
「これで……眠れる」
思わず零れたのは、言葉だけでなかった。目頭が熱くなり、ぽろぽろと涙が溢れる。
だが、喜んだのも束の間。
私はこの液体を、零さないように家まで持ち帰らなくてはならない。
途方もない帰路を想像して、私は力なく両目を閉じた。
その瞬間。
「おやすみなさい」
山中から、その言葉が聞こえた。
体全体から力が抜けて、風の音が遠ざかっていった。
それが、きっと午後十一時のことだったと思う。
朝。
私はその両目をぱちりと開けた。
「変な夢見ちゃったような気がする」
そんなことを呟いて、私は家を出る支度を始めた。
今日も私は、眠るためにおやすみを貰いに行く。
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