『鍋過斗子の婚活日記』

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★★★ 「ふう…。すっきりしたわ」 過斗子先生が泳ぎ出してから、どれくらい経っただろう。 数えきれないほどプールを往復してやっと過斗子先生はプールから上がり、私が抱えているシャネルのバッグからスポーツタオルを取り出すと顔を拭いた。 水中眼鏡を花柄の帽子の上にのせた過斗子先生は、ピンクのロングヘア―が水泳帽にすっきりと収納されているため、初めて会ったふわふわのドレスにキラキラのロングヘア―スタイルの紅粉青蛾(こうふんせいが)とはまた違う魅力が溢れている。 (あら)わになった額はつるりと綺麗な曲線を描き、髪と同じ色のアイブロウで描かれた眉はきりりと意志の強そうな直線で、襟足を拭う過斗子先生の伏し目がちな睫毛はペンでも置けそうなほど長くて、ピンクのマスカラでくるんと上向きにカールしている。 「リフレッシュもしたし、着替えてメイク直したら、いよいよ婚活パーティーに乗り込むわよ」 そうだった! 過斗子先生に見とれていたから、危うく初志を忘れるところだった。 婚活! 婚活パーティーに来たんだよ私たち! 過斗子先生の名作『鍋過斗子の婚活日記』の取材のために! 時計を見ると、プールにもう四十分以上滞在していることに気づく。 「あっ! 過斗子先生! 婚活パーティー始まっちゃってますよ! 早く行かないと!」 急かす私をどこ吹く風と、過斗子先生はマイペースにグロスを重ね塗りしている。 「過斗子先生ってば! 読者が待ってます! 急いで下さい!」 「待っているのは読者じゃないわよ」 ティッシュで軽く唇を押さえて髪を結わえているリボンの位置を直しながら過斗子先生が言う。 「私を待っているのは未来の夫たちよ! さ、くるみん行くわよ! 待ってなさい! まだ見ぬ未来の夫たち! この鍋過斗子(なべかとこ)がじっくり品定めして差上げるわよ!」 過斗子先生カッコイイ! ピンクのドレスをひるがえして威風堂々と婚活パーティー会場へ戻る過斗子先生。とその後ろをついていく私。 会場に入ろうとすると、入口で主催関係者の女性に声をかけられる。 「鍋様! もう自己紹介タイムは終わってしまいましたよ! 早く入って誰でもいいから話しかけて下さい!」 焦る女性の言葉もさらりと聞き流し、過斗子先生は優雅に微笑む。 「真打は最後に登場するって相場が決まっているのよ」 ふさぁとピンクの髪をかき上げ、過斗子先生は悠々と会場へと入った。 …と思ったらそこでピタッと足を止める。 「過斗子先生? どうしたんですか?」 不思議に思って声をかけると、過斗子先生が勢いよく振り返って私の腕を掴んだ。 「ほらほらほらほらほら―!! あそこ見てごらんなさいよー! あの若い子たちの前! やっぱり行列できてるじゃない! もう本当イヤになっちゃう! やっぱりオトコって若い女が好きなのよ! もう! この婚活パーティーもハズレね。…シャンパン頂戴」 文句を言いながらカウンターへと進んでバーテンダーに注文する。すぐに細長いグラスがサーブされた。 それを優雅に持つと、過斗子先生はグイッと傾け一気に中身を飲み干した。 「あー、泳いだ後のシャンパンはやっぱり最高ねえ。ほら、くるみんも好きなの頼みなさいよ。せっかく飲み放題なんだから。くるみんはどんなお酒が好きなの?」 「ええと、カシス系とか、ですかね?」 答えると、過斗子先生は「くぅーっ!」とおでこに手を当ててのけぞった。 「女子! 女子力ね! くるみん、あなた女子力あるわよ! ちょっとあの辺で手持無沙汰にしてるオトコに声かけてみなさいよ!」 「いやいや! 今日は過斗子先生の取材ですよね? 私が積極的になってどうするんですか」 過斗子先生は二杯目のシャンパンを飲み干してグラスをカウンターに置き「同じの」と注文した。 「くるみんと相手のオトコのやりとりを次のネタにするわ。うん、今回はくるみんが主役の回にしましょ。いいわね?」 ものすごい圧だ。こ、これはどう断ればいいのだろうか…。 そのとき、 「あのー、自己紹介のときいませんでしたよね?」 声をかけられ振り向くと、会場に入ってくるとき汗だくだから『4』をつけた男性が、もじもじと視線を彷徨わせている。 これはチャンス! 「過斗子先生! 今です! さあ!」 呑気にシャンパンを飲んでいる過斗子先生の背後に回り込み、男性の前へと押しやる。 「あなた、好きなお酒は?」 やる気なさげに男性に話しかける過斗子先生。男性は相変わらずもじもじしたままだ。 「は、はあ、あの、ぼく、アルコールはちょっと…」 「はあ? 飲めないのに飲んでるところに声かけてきたの? 気が利かないわね。そんなんだから独身なのよ」 過斗子先生辛辣! もう少し和やかな話題に持って行かないと…。 「あ、あの! 過斗子先生はお酒だけじゃなくて読書も趣味なんですよ! ね、過斗子先生?」 「そうねぇ。職業柄、本はそれなりに読むけど」 よし! 「そちらは…、ええと、お名前『渡部』さんでよろしかったですか?」 「は、はい…。ええと、『山田』さんと、『鍋』さん、ですか?」 「はい! こちらの美女が鍋先生です! 先生、好きなジャンルは何ですか?」 「もちろん恋愛物よ。ハーレクイーンはバイブルね」 えええ…、いや、ハーレ、読むと面白いけど、でも、なんかこう、もっと男性が食いつきそうなジャンル言って下さいよー! と思った瞬間、渡部さんが視線をガチッと過斗子先生と合わせて言った。 「あっ、ぼくもハーレクイーン好きなんです! ぼくたち気が合いそうですねっ。ちなみに設定はどんなものがお好きですか?」 おおお! なんと男性もハーレファンだったとは! これは運命じゃ?! わくわくしてきたぞ! 過斗子先生の答えを、渡部さんと私とで期待に満ちた目で待つ。 過斗子先生は一口シャンパンを飲むと、ほう、っと憂いを帯びた吐息を漏らした。 「下剋上略奪愛物(げこくじょうりゃくだつあいもの)しか勝たないわ」 げ…?! 下剋上略奪愛って…、そんなジャンルあるんですか―?! 渡部さんも汗だくで視線をウロウロさせている。その視線が過斗子先生のシャンパングラスに止まった瞬間、渡部さんは勢いよく頭を下げた。 「ごめんなさいー!」 脱兎の如く走り去る渡部さんと、優雅にシャンパンを嗜む過斗子先生。 「本当、草食系のオトコってイヤよね。結局、手玉にとれそうな若い子のところに行くんだから。あー、そろそろ酔ってきたわ。くるみん、タクシー呼んで頂戴」 えええ…と思ったけど、でも私も正直もう帰りたい。素直にタクシーを呼び、先生を乗せてマンションの住所を運転手さんに伝える。 「くるみん、次こそはお互いゲットするわよー」 ほろ酔いで手を振る過斗子先生にお辞儀をしながらお見送りする。 タクシーが小さくなるのを見届けたら、どっと疲れが襲ってきた。 今日は直帰しよう…。編集長に打合せ終了のラインを入れ、私は駅へと向かったのだった。
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