第一部

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第一部

 その日、僕は何の躊躇いも逡巡もなく、自殺することを決意した。  自殺を決定するまでに至る経緯を事細かに話すことは、僕の幾分か残った自尊心がそうはさせない。そもそも詳細に話しても面白いものでもないだろうし、話したところで何の足しにもならないだろう。端的に述べるならば、それは昨今ありふれた不登校学生の物語になる。対人関係が苦手で、それ故に学校に居場所がなくなった十六の少年の、引きこもりの経緯。ほら、面白くないだろう。聞いたところで何も得るものはない。  まあ、そんな引きこもりの高校生は、ある日自殺することを決意した。自殺という行為を決定づけた最大の要因も、これまたありふれた理由だ。自分に生きている価値を感じなくなった、から。朝から晩まで自室に引きこもり、両親が稼いだ金で食事をして、その後眠りにつく。こんな毎日に、生きている意味を実感できる者がいたら、それは精神的にどこか壊れてしまった人間だ。少なくとも頭のネジが外れている自覚はないので、最低限の己に対する無価値さは体感している。だからいずれ僕は自分の無意味さを悟って、自殺することを決めたのだ。  さて、ここで問題になるのは、どうやって自殺するかということ。  だけど、そこに抜かりはない。僕が暮らしているのはマンションの一室で、ここは六階だ。僕が占拠している部屋はベランダに面しているため、そこから飛び降りれば万事解決。道具もノウハウも必要ない。重要なのは飛び降りる勇気だ。僕の中には、幾ばくかの生に対する渇望というものもある。死にたがっているのに生きたいというのも矛盾しているが、人は本能的に生き残ろうとするものだ。だからそれは僕が弱いのではなくて、生来的に確定された遺伝子のノイズのせいだ、と思いたい。  現在時刻は午後四時。普通に学校へ通う学生なら、そろそろホームルームが終わって下校する時間帯だ。このような時間に自殺するのも自分に対する皮肉が効いていて笑えないが、とやかくは言っていられない。下手に時間をかけてしまっては自殺に過度な恐怖心を抱いて、死ぬことを諦めてしまうかもしれないからだ。  これは正しいことーー。死ぬことで、救われる人がいる。学校へ行かない高校性はただの蛆虫だ。親に寄生する宿り木だ。だから様々な人からこの僕、相生巡(あいおいじゅん)を解放する。そうすれば学校の教師にも、両親にも迷惑をかけることがなくなるはず。もれなくハッピーエンドというわけだ。  僕は遺書の類を書こうと思い立って、やめた。遺書というのは、この世に未練があって書き遺すものだ。そもそも僕はこの世にいてはいけない人間なので、生きていること自体が間違っている。だから未練などあってはならない。誰かに見届けられる必要もない。僕はただ生命を終了させるだけでいいのだ。そうすれば全てが解決する。何の後腐れもない。  僕は座っていた勉強椅子から立ち上がると、ベランダの方へ向かった。堅く閉ざされたカーテンをサッと開け放つ。部屋に自然の明かりが差し込むのはいつぶりだろうか。その眩しさに目を細めながら、窓を開ける。僕の部屋のベランダには靴の類は置かれていないので、そのまま素足でベランダに出た。冬に向かう秋の肌寒さが、足裏を刺激する。そのままベランダを歩いて、手すりまで近づく。そして、少しだけ下を覗き込んだ。階下はアスファルトが敷き詰められており、当然のことながら飛び降りれば即死だろう。逆に死にきれなかった場合が怖いが、その心配もいらないはずだ。そもそも六階から飛び降りて無事だったという人の話を聞いたことがない。だから死ぬときは一瞬のはずだ。  寝巻のまま、僕は欄干の上に立った。流石に上階だからか、吹き付ける風が強い。自分の意思以外の要因で落ちてしまわないように足で踏ん張る。風が少し止んで、辺りに静寂が訪れた。  僕は目を閉じる。世界が優しい暗黒に包まれていく。きっと、死んだ後もこのような甘い昏さが満ちているんだろうな。天国と地獄については信じていないが、もしそのような世界があるのなら、当然ながら僕は地獄に落ちるだろうなと思った。  静かに、身体を前へ傾けていく。思った以上に、死への恐怖はない。まるで死ぬことが自然であるように。そして僕は重力落下の法則という単純なシステムに支配され、地面に落ちていく。  身体が空を切る。耳元がその音で若干うるさい。そう言えば、自分が地面に衝突した時の音は聞こえるのだろうか。そんなどうでもいいことを考えている内に、きっと僕は死んだのだろう。身体が綿毛に包まれたかのような浮遊感にまとわれた。とても柔らかい。死ぬのって、もしかしたら気持ちのいいことなのかもしれなかった。そして、足元に冷たい感触を感じる。まるで冷たい湖に足を浸けたかのような。しかし僕は、それが別に水に触れたからではないことに気付く。そう、それは磨かれた大理石のような感触。いや、そんなことはないはずだ。僕は目を開けた。  しかしそこに広がっていたのは、死後の世界などではなかった。  目の前には、まるで絵本の中に出てくるような立派な髭を蓄えた老人がいた。彼は大仰に装飾された椅子に腰をかけながら、こちらを見下ろしていた。まるで品定めをしているようだ。その隣には、これまた華美な装飾を施した僕と同い年くらいの女の子が、その老人に寄り添うようにしてこちらを見下している。  僕は彼らから目を離して、周りを確認した。僕の周囲には中世を思わせる甲冑に身を包んだ騎士らしき人影や、それ以外にも成金貴族を思わせる男女が幾人も並んでいる。それも僕を取り囲むように。そして僕はどうやら御伽噺に出てくる王国の広間のような、そんな場所に跪いていることに気が付いた。  僕は何がなんだかよくわからなくなって、目の前の老人を見る。  おかしい。僕は自殺したはずだ。もしかしてここが天国という場所なのか。それにしても天使みたいな姿はなく、どれも中世の王宮を思わせる顔ぶれだ。まるで引きこもっている間、暇つぶしにやっていたロールプレイングゲームみたいな。全くと言っていいほど現実感がない。なにやらおかしい夢でも見ているのだろうか。  そんな風に疑問符を浮かべていると、目の前の老人が立ち上がった。 「――」  彼は何かを言ったようだが、僕はそれを聞き取ることができない。それは彼の言語が日本語ではないからで、そもそも英語でもない。多分、僕が今まで見聞きした言語の内、どれにも該当しない気がする。つまり全く知らない言語で話されたわけで、当然僕はそれを理解することができない。  呆然と目の前の老人を眺めていると、ふと背後に気配を感じた。すぐに振り返ると、なにやらローブらしきロングコート(に見えるが、よくわからない)に身を包んだ二十代くらいの女性が、優しげな笑顔を浮かべながら、こちらを見つめていた。彼女は俺の傍まで来て膝立ちになると、静かに右手を僕の額に触れさせた。  冷たい感触。わけのわからない状況に混乱して、僕自身の体温が上がっていたのか、その指先は心地よかった。しかし彼女の指が僕の額に触れた途端、頭の中に何かが入り込んでくるような感覚が走る。  ――気持ち悪い。  そんな風に感じて、顔を引きつらせるが、その不快感はすぐに消えていった。そして、不思議なことが起きたことに気が付く。 「おお、勇者よ。よくぞ我らの召喚に応じて下さいました。歓迎いたします」  僕は驚いて、正面を振り返った。そこには椅子から立ち上がった老人の姿がある。声が聞こえた方向的に、彼が喋ったようだ。  ポカンとしていると、その老人はゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。隣には付き添う同い年くらいの女の子がいる。 「混乱されるのも致し方ない。急に呼び出しましたからな」  老人は人懐っこそうな笑顔を浮かべながら、そう告げた。隣の少女も頷いている。取り敢えず、この状況に理解が追い付かない。  そこで僕は、少しこの現状について尋ねてみることにした。 「――あの」  緊張からか、声が上ずってしまう。老人と少女はこちらが発言するのを理解したのか、聞きそびれないように、といった風に耳をこちらに傾けていた。 「――ここは、どこですか」  僕の問いに、老人は何度も頷いた。 「ここは私が治めるアルビオン王国でございます」  アルビオン王国。古代ローマ時代のブリテン島がそんな名前で呼ばれていた気がするが、それとは関係あるのだろうか。しかし周りの甲冑姿の騎士らしき人物を見て、時代的に矛盾が生じていることに気が付く。恐らくだが、僕の知っているアルビオンではないようだ。  ――つまり、どういうことーー?  ここがアルビオン王国と呼ばれている場所であることはわかった。しかし現代にそのような名前の国はない。そもそも、僕は死んだはずだ。死後の世界がどうなっているのか知っているわけではないが、こんな風に召喚? されるものなのだろうか。 「――えっと、召喚と言っていましたが」  老人は笑顔で頷いた。 「あなた様は我が国の窮地を救う、勇者として召喚されたのです。この国に古くから伝わる英雄召喚の儀式を用いて、です」  更に頭が混乱してきた。英雄召喚? 勇者? まるでファンタジーの世界じゃないか。僕は本当に夢でも見ているんじゃないか。 「――僕が、勇者?」 「その通りでございます。あなた様は勇者、英雄です。きっと物凄いお力の持ち主なのでしょう。是非そのお力で、我が国を救っていただきたい!」  僕はなんとなく、自殺したはずなのに、とんでもないことに巻き込まれていることを悟った。 それから、僕は混迷を極めた頭を抱えたまま、案内されるがままに王宮? と呼ばれている場所を連れまわされた。案内をしていたのは甲冑に身を包んだ騎士の男だ。彼は(彼以外もそうだが)恐らく身長二メートルを超す長身の男で、威圧感が尋常ではない。しかし案内自体は親切なもので、僕はその案内の間、混乱した頭を整理する時間を得ることができた。 僕はどうやら、地球とは違う世界の国に召喚されてしまったらしい。時間を遡った、という可能性もあったが、先ほど急に言葉が理解できるようになったことを鑑みても、地球とは違う法則で世界が回っているのだろう。ローブの女性が僕の額に触れただけで、言語を理解できるようになった。それは最早魔法と呼べるものではないのか。まだわからないことが多いが、とにかく落ち着きたい。死んだはずなのに国を救えと迫られるのは、悪い夢としか思えないからだ。  王宮を案内されて、僕は最終的にある一室に通された。そこは来賓用に使われる部屋のようで、ベッドや机など、生活に必要な最低限のものが揃っている。僕をその部屋まで案内した騎士は、その場で別れを告げて去っていった。しかしそれと入れ替わるように、何人かの女性が入ってくる。彼女らの服装的にどうやら王宮の使用人のようで、給仕服に身を包んでいた。  僕が戸惑っていると、女性たちの内一人が前に出てきた。 「初めまして。私はミーナと申します。今後、あなた様の身の回りのお世話を致しますので、どうぞお見知り置きを。後ろの子たちも交代でお世話致しますが、基本は私が行いますので」  つまり、僕の使用人というわけか。本当にわけがわからない。僕が勇者で、国を救う? 本当に何かの間違いとしか思えない。そもそも夢の可能性もある。僕はそう思って、指先で頬をつねった。  ――痛い。  しかし、目が醒めるといったことはなく、目の前には驚いた表情の使用人たちが立っていた。夢ではないらしい。じゃあ僕は、本当に見ず知らず世界に召喚されたというのか。 「ど、どうされました?」  少し強くつねりすぎたのか、若干涙が出てくる。僕は取り敢えず首を横に振って大丈夫だと伝えた。 「それと、一つお聞きしてもよろしいですか?」 「うん」 「あなた様のお名前を、伺っておきたくて」  そう言えば、さっきから一度も聞かれていなかった。 「相生巡、です」  そう言うと、ミーナと名乗った女性は不思議そうな顔をした。 「アイオ、イ、ジュン様――、ですね、えーっと」  なんだか言いにくそうにしているが。というか、この国の人の名前は、ミーナという前例から垣間見えるように、日本式でもなくファミリーネームもないのかもしれない。そう考えると、呼び方は簡易的な方が良いかもしれない。 「――えっと、ジュン、でいいですよ」  そう告げると、ミーナは何度もジュンの名前を繰り返し発して、そして笑顔を浮かべた。 「はい、よろしくお願いしたします、ジュン様」  ミーナが恭しく頭を下げると、背後の使用人たちも深々と頭を下げた。
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