4人が本棚に入れています
本棚に追加
それから僕は、一か月間の訓練を受けた。
その訓練は非常に過酷なもので、一介の学生であった僕には、とてつもなく辛いものだった。何度もくじけて諦めたくなったが、それ自体をアルビオン王国は許してくれない。僕はこの国のために戦うしかないのだ。それが敵地への単独潜入という、生きて帰れる確率が恐ろしく低いものであっても。
僕はアルビオン王国の諜報員として育成課程を受けていたが、盗み聞きした話によると、過去に僕のような兵種は存在していたようなのだ。しかしあまりにも成功率が低く、人材の無駄遣いに直結するので廃止されたらしい。それほどまでに危険な任務を、僕はこれから受けようとしている。潜入が発覚して、ブリタニアに捕まってしまう可能性。そうすれば、僕が勇者だと判明するのは時間の問題だろう。そんなことになれば、即座に処刑されてしまうのは火を見るより明らかだ。そう考えると、アルビオン王が一体何を考えて僕を王城に呼び戻したのか、その魂胆が垣間見える。
勇者召喚は、決して一回きりで使用不可能になるわけではないらしい。ただ再召喚には条件があって、以前に呼び出した勇者がその任を解かれるか、死亡すると再召喚が可能になるようだ。その条件を照らし合わせてみると、僕を潜入工作という恐ろしく危険な任務に従事させようとしている理由がわかる。
きっとアルビオン王は、僕を使い捨てようとしているのだ。そもそもミーナさんの一件の後、使い物にならなかった僕を追放して勇者という任を解き、新しい勇者を召喚しようとしていた。しかし前の勇者が意外にも使い道がありそうだったので呼び戻し、取り敢えず使えるだけ使って、死んだら新しいもっと有用な勇者を召喚する。
きっと、そういうことなんだろう。僕は勇者として再度召還されながら、殆ど使い捨てと同義の扱いを受けていた。この世界では、生命の価値というのが恐ろしく安い。だから異世界から呼んだ、戦ったことのない子どもなど、早いところ捨てたいということだ。僕はその真実に辿り着いて、しかし心は動かなかった。その内心は昏い静寂で満ちていて、動性というものが見受けられない。
きっと僕は、どこか壊れてしまったんだろう。ミーナさんを殺して、ベンを喪って。僕に優しくしてくれた人を、ことごとく喪失して。人間の心というものを、どこかに忘れてしまったんだ。そういった思考に辿り着いてしまうほど、僕の心は冷え切っていた。
だから、もはや何も感じない。どんなに酷い仕打ちを受けているとしても、僕の心が揺らぐことはなかった。感情というものを遮断して、もう悲しむことがないように自分自身で仕向けたのだ。喪う悲しみを知っているから、もう何も期待しない。そうすることで、喪失の苦しみを感じずに済むから。皮肉なことながら、僕の現在のこの感情は、潜入工作という任務においては恐らく最上に近い精神状態ではあろう。ただ任務を遂行する、機械仕掛けの兵士。訓練中に学んだことで、兵法というものがある。その中に、兵士の二割は他人を殺せないというものがあった。戦争に従事させられながら、敵を攻撃できないのだ。それは恐らく生来的に持ちうる、他者を傷つけたくないという本能に由来する。それは先天的な人の善意と呼べるものであった。しかし、今の僕は非常に平面的な感情形態であるので、恐らくながら他者を傷つけることに罪悪感はないだろう。ブリキの兵士の方が、兵員としては優秀なのだ。だから現在の僕は、戦士として最適化された存在だった。
そんなこんなで、心の機微について咀嚼している内に、一か月という規定された訓練期間は終了した。僕はこの一か月間で、潜入工作兵として造詣を深めて、かつ外面的な訓練も施された。僕は短い期間内で、そのスパンにおける最高のパフォーマンスを発揮したと思っている。潜入工作兵として、必要最低限の訓練は修了したので、後は実戦で生き残れるか試すしかない。結局、生き死には自分が決めるのだ。僕はもう、覚悟を決めていた。何に対しても期待をしていなかったから。僕は昏い目をした殺戮兵器となり、潜入工作を行う。それ以上でもそれ以下でもない。僕はもう、前には戻れないのだ。
僕に配属する部隊というものは存在しなかった。前に言った通り、僕のような兵種は絶滅していたのだ。だから僕はいわば一匹狼、一人だけの軍隊(ワンマン・アーミー)である。僕に戻るべき場所はもうないのだ。
訓練を完了してから、僕は直ちに任務を受注した。一か月という期間の合間に、ブリタニア軍による侵攻はより深刻なものに陥っていた。もう手段も選んでいられないということだ。僕は騎士団ではなく、アルビオン王直属の私兵ということになっているので、彼から任務を受けることになる。アルビオン王が僕に依頼した最初の任務は、いわゆる暗殺だった。
アルビオン王国、その王都。そこから東へ下っていくと、領内だった小さな街に辿り着く。バリーと呼ばれるその街は、現在ブリタニアの占領下にある。
バリーは王都から見て南東に位置し、ブリタニアとの戦争では、兵站輸送の拠点だった。しかしこの前の戦闘で、バリーはブリタニアに占領されてしまった。
ブリタニアはこのバリーという街で補給を整え、一気に王都まで侵攻してくる可能性が高いらしい。バリーを占領したブリタニア軍の中には、優秀な騎士団長であるネビスという男がいるらしい。非常に策謀に優れ、武力も申し分ないそうだ。
しかし進行中のブリタニア軍は、その作戦立案をネビスに一任しているようだった。それほどまでに彼は優秀な指揮官であるらしい。そこで僕に白羽の矢が立ったわけだ。
今回の任務は、このブリタニア軍騎士団長のネビスを暗殺すること。彼を殺害すれば、ブリタニア軍の勢いを削ぐことができる。しかし当然のことながら、騎士団長ともあろう人物なので、警備は尋常ではないだろう。そう容易くはない任務だが、僕には遂行するしかない。僕は捨て駒だ。だからそもそも本当に暗殺が成功するとも思われていないだろうし、奇跡に期待という感じだろう。ハイリスクハイリターンな作戦だが、やるしかなかった。
僕はアルビオン王から任務を受注して、バリーに潜入する準備を整えることにした。初任務ではあったが、心が躍るなどそういったことは一切ない。僕は淡々と作戦の準備を整えて、やがて出発する日が訪れる。
前提として、この任務は内密なものだったので、作戦概要を知っている人物自体が少ない。ミーナさんの前例もあるが、ブリタニアに暗殺者を差し向けたことが露見してしまっては、作戦の成功率は限りなくゼロになる。だから僕という勇者の存在そのものを隠蔽していたらしく、僕は公式には追放されたままだという。
だから衆目に晒されないように、出発だからといって見送りはなかった。かろうじて走れる馬を一頭割り当てられ、そのままバリーまで出撃する手はずだ。荷物を持って、僕は馬屋を訪れる。前に乗った勇者用の葦毛の馬ではない。彼は目立ちすぎるし、そもそも馬を持って帰ることができるとも思えないので、守銭奴的な考え方を持つアルビオン王は、僕にあの馬を使わせてくれなかった。
僕に割り当てられたのは、ほぼ引退間近の老馬だ。彼はかろうじて走れるだけの体力しかないらしく、恐らく彼を連れて再度王都に帰還することは難しいだろう。多分アルビオン王は僕に帰ってきて欲しいわけではないらしく、行った先で死んできてほしいようだ。だからそのために僕を乗せて帰ってくるだけの体力を持たない老馬を割り当てた。しかし僕は悔しいとも思わない。どうせ僕はお払い箱なのだ。作戦がもし成功したら、歩いて帰ってくればいい。そもそもアルビオン王国以外に逃げれば良いという話だが、そう話はうまく運ばない。僕はこの世界の住人とは顔立ちが違いすぎるし、アルビオンの隣国はブリタニアだ。もしアルビオンから逃げようともブリタニアに行くしかなくて、そうともなれば僕は目立ってしまうし、恐らく勇者だとバレてしまうだろう。そうなれば処刑されてしまうのは明白なわけで、僕にはいくら扱いが悪かろうとも、アルビオンに戻る以外の選択肢はないのだ。
馬屋に入って、僕は指定された老馬の手綱を握った。彼は他の馬に比べて小さめな感じだ。しかし反ってそれは僕にとって扱いやすいというわけで、何となくその大きさから親近感が湧く。
「よろしくな、スカーレット」
この老馬の名前らしく、その赤々とした毛色にぴったりだ。僕の言葉に反応したのか、スカーレットは小さく鼻を鳴らした。
馬屋を出て、僕はスカーレットに跨る。小振りな体格の馬だが、案外足腰はしっかりしていそうだ。僕は一人頷いて、フードを目深に被った。
スカーレットの手綱を引いて、僕は正門の方へ歩かせる。前にサーニャがやっていたように、僕も門番の騎士に声をかけた。
「開けてもらえますか」
そう告げると、僕の存在を流石に知っていたのか、彼は無言で頷いて、門を開けてくれた。
門の先には、吊り橋と城下町が見えた。その風景はいつもと大差ないようで、これから死地に向かう自分の感情を、少しだけ和らげてくれる。
「スカーレット、行こう」
首筋を撫でてから、僕は手綱を引いて、彼を走らせる。背後で門が閉まる音がしたが、振り返ることはない。どうせ、死ぬか帰ってくるかしかないのだ。特に見返る必要もない。
僕はスカーレットが案外走れそうなことに気が付いて、少し嬉しく思いながら、城下町の先、バリーのある方角へ顔を向けた。
城下町を抜ける際もフードを被っていたので、最初の時のように勇者だとバレることもなく、しばらくしてスラム街に通りかかった。
少しだけ寄り道したいという気持ちはあったが、アルビオン王にスラムに立ち入ることは禁止されている。僕は少しだけ残念に思いながらも、スラム街を抜けて城壁の外を目指した。
城壁都市と言うだけあって、その堅牢な壁は見る者を威圧する存在感を放っている。王都が高所に在りながら城壁で街を囲まねばならない理由は、どうやら魔法の存在にあったらしい。
魔法。フィクションの創造物。日本にいた時はそんな風に考えていたが、この世界では魔法と呼ばれるものが実際に存在しているらしい。
訓練を受けている最中に、僕はこの世界の概要についても学ばされた。その際に魔法について触れたことがあった。
魔法というものは、僕が知っている“魔法”とは少し違うものらしい。
そもそも、魔法を使える人間はごくわずかであり、そう便利なものでもないらしい。例えば、創作でよくありそうな火を出したり、水を出したりといった“物理的”な事柄を起こすことは不可能らしい。
現在この世界で使われている魔法というものは、どうやら精神的な作用が大きいようだ。僕がこのアルビオンに呼び出された時、ローブを着込んだ女性に触れられて、何故かここの言葉がわかるようになった。それは確かに物理的な要因ではないが、そういった目に見えない事柄を起こすのが魔法というモノらしい。というか僕が施されたのは言語をわかるようにする、という魔法ではないようで、どうやら“相手の言葉を精神的な理解に段階を上げる”というモノのようだ。それだけでは理解が不可能に近いので補足しておくと、言語というものは、そもそも言葉が生まれる類型、が存在する。地球で言うところ語圏に該当するだろう。そもそも人間には生来的な共通言語というものが存在していて、あらゆる言葉はそこから派生して生まれたもののようなのだ。というか、異世界の言語と地球の言語が同じ類型だとも到底思えないのだが、どうやら人間的生物というものは、集合的無意識に似た共通性があるらしい。例えば悪夢を見た際に、表出する害悪のイメージというものには典型例が存在するように、人には共有する無意識が存在しているのだ。人はそれに依って言葉というものを生み出しているので、どんな地域、民族でも言語には共通点が存在する。それは元来人が持ち得ていた始祖の言語と呼べるものであり、僕たち誰もが保有するものだ。それに着目したのがこの魔法のようで、言葉を共通言語的に理解できるようにするらしい。つまりは知らない言語でも、共通言語的な類似点から、ある程度ぼんやりとした理解が可能になるということだ。共通言語は生来的に獲得していたものだから、そこまで知らない言語が濾過されれば、何となく理解ができるという手合い。
まぁそんな感じで、魔法というものは精神的な作用が大きいらしい。礼を出すと、重傷者の痛みを取り除くことはできないが、痛みで苦しまないようにすることはできるらしい。痛みは感じるが、辛くない。そういったことのようだ。
そういうわけで、この世界では直接的な兵器として魔法が使われることは少ないようだった。しかし軍事転用が行われていないわけではなく、例えば心的外傷後ストレス障害に近い状態に陥った兵士に対して精神的な措置を施したりなど、そういった分野で利用されているらしい。だけど魔法を使える者自体が恐ろしく少ないので、よっぽど重要な人物に対してしか魔法が使われていないのが現状だ。つまり魔法は存在するが、あまり普及していないということ。まぁ敵兵が火球を放ってきたりしたら恐ろしいことこの上ないので、兵器としてダイレクトに使われていないだけ僥倖か。
というか、それだったら僕に対して処置を施せば、殺人に対する躊躇いもなくなったのではないか、と思うかもしれない。しかし魔法は発展途上にあり、人の殺人に対する忌避間を和らげる魔法というものは未完成だった。
前にも話したが、人間というものは生まれつき殺人を避ける傾向にある。それは人が持ちうる博愛の無意識と呼べるものであり、僕たちの中に強く根付いていた。だからかなり根の深い心理的傾向であるわけだから、共通言語が存在した他言語の習得魔法より難易度が桁違いだ。よって殺人を忌避する生来的な傾向を捻じ曲げる魔法は、前提としてまだ確立されていないらしい。だけど、これは逆にラッキーだったと言えるだろう。もしそんな魔法が存在していたら。この世界は恐らく人殺しを全く恐れない狂人たちで満たされたであろうから。心が乾ききっている僕が言っても説得力に欠けるが、人を殺して何の罪悪感も覚えないというのは、異常すぎる状態だ。そんな精神的な作用で人を殺しているというのなら、もしその魔法が解けてしまった場合、良心の呵責で生きてはいけないだろうし。
城壁を抜けると、そこは一本の街道と森林が広がっていた。未開発の地域も少なくないのがこの世界の現状だろうが、道があるだけまだマシか。僕はあまり通行量の多くない街道を進んで、しばらくして横道に入る。
この道は前にアルビオン王に案内された道筋であり、今回もあの丘を利用させてもらうつもりだった。
スカーレットを走らせていると、すぐに視界が開ける。
そこは前にアルビオン王と騎士たちと訪れた高所の丘になっていて、偵察には持ってこいだ。そもそも最初に訪れた時侵略されていた町がバリーらしい。。だからバリーの街の場所がわからないということはなかった。
僕はスカーレットから降りて、崖の端の方に向かう。森林の中の開けた場所なので、やはり視界は良好だ。僕は誤って崖から落ちないように注意しながら、目を凝らしてバリーの街を確認した。
ここからでも、バリーは良く見える。前に来た時、白騎士が殺される場面が見えたくらいなのだから、警備状況くらいわかるかなと思ったのだ。
じっと目を凝らして観察する。確かに小さな街であるらしいが、それに対して不釣り合いなほどに黒い甲冑を纏った騎士たちが見受けられた。
彼らは街中の警邏を行っていたり、馬車に物資を詰め込んでいたりと様々な行動を取っていたが、恐ろしく数が多い。潜入工作が聞いて呆れる。そもそも僕は敵に見つかってはいけないのだ。彼らの目線一つ一つをかいくぐって、ネビスを暗殺する必要がある。ここから見える限りでは、そんな芸当、どう考えても不可能に思えた。
溜息を吐いて、僕は再度慎重に警備状況を確認する。街は確かに黒騎士たちで溢れかえっているが、僕は任務から逃げ出すことはできない。どう転んでもあの街に潜入しなければならないのだ。今できることは、最大限努力して生きて帰ることだった。
警備兵の数から目を離して、僕は街の中で一番大きな建物を探した。しばらく街を観察していると、すぐにそれは見つかる。その建築物はどうやら教会のようで、地球で言うキリスト教系の雰囲気を醸し出していた。教会の前には黒騎士が二名立っていて、周囲の監視を行っている。警備状況、作戦指揮等を鑑みても、ネビスは恐らく一番大きな建物にいるだろう。もしいなかったら別の場所を探索するまでだが、潜入する前にある程度当たりをつけておくべきだ。
そもそも、敵地に直接侵入して暗殺を行う任務の際、暗殺対象の居場所くらい斥候や間諜の類を利用して割り出しておいて欲しかった。自分は特別詳しい訳ではないが、地球のそういった作戦でも、ある程度諜報によるサポートがあってこそ暗殺は成功するものだと思う。それを何の事前情報も無しにただ殺してこいというのはあまりにも粗雑な扱いだ。潜入する側の苦労を一切考慮していないとも言える。
というより、アルビオン王は僕を使い捨てるつもりなのだから、かえってこの扱いは当然なのかもしれない。何の支援も行わず、僕自身に全てを任せる。言葉尻も良くないが、あまりにもぞんざいだ。僕はこのような状況下で任務を成功させなければならないので、その成功率は恐ろしく低い。しかしその成功確率を少しでも上昇させるために、やれることをやるしかなかった。
取り敢えずネビスの居場所に当たりをつけて、僕はバリーの街から目を離した。そしてスカーレットの方に歩み寄って、その鞍に乗り直す。
「行こうか」
スカーレットの手綱を引いて、僕は彼を前進させた。
先ほどの街道に戻って、とにかくバリーの近くまで行こう。
スカーレットは大人しく僕の指示を聞いて、老いていながらもしっかりといた足腰で走り始めた。
最初のコメントを投稿しよう!