第一部

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 朝食を済ませて、僕は部屋で休んでいた。そもそも、今の立場で外を歩くことなど罵詈雑言の対象になりかねないので、できれば避けたいところである。しかしいつまでも自室に籠りっきりというのも、転生する前の生活と何ら変わりないので、不健康極まりない。だからミーナさんにも言われた通り、少しだけでも外に出た方が良いのだろう。  僕はベッドの上で背伸びすると、部屋から外に出てみることを決意する。すれ違う人々から非難の目線を浴びることは避けられないだろうが、やはり部屋に籠りきりというのも良くない。僕は覚悟を決めると、ドアまで近づいていく。扉の前に立って、少し逡巡する気持ちが湧き上がるが、迷っていても仕方ない。僕は腹を決めて、扉を開けた。  廊下に出て、取り敢えず城の内部を散歩してみようと思い立つ。というか、僕はこのような立場なので、そう易々と城下町へは降りられないのだ。だから僕の行動範囲は基本的に限定されていて、城の内部や城の庭園のみが行き来できる限界だ。しかしそこに行こうとも誰か先客がいて、何らかの非難の目線を食らうのは避けがたい。だけど他に行くことができる場所もないので、大人しく僕は庭園に向かうことにした。  僕の自室はいわゆる客将室と呼ばれるもので、来賓対応用の限定されたものだ。それは外国、つまりアルビオン王国外からの使節や、その他来客を寝泊りさせるためのものである。だからその区画は城の内部でも良い立地――例えば景観が良いとか――に設置されていて、そういう理由からか庭園は歩いてすぐのところにあった。  そもそも来客用の部屋は庭園を囲む吹き抜け状に用意されており、窓から庭園が一望できる形になっていた。だから庭園への入り口は散歩ほどの距離もなく、すぐに到着する。  出入り口を抜けて、緑が生い茂る庭園に入っていく。今日が休暇の日なのか、幾人かの人々が庭園で寛いでいた。そこに普段から引きこもっている勇者が邪魔するのはなんだか気が引けたが、このまま帰るのもおかしい。僕はなるべく目立たないようにしながら、庭園の端の方へ進んでいく。その間、否応なく何人かの人に見つかってしまった。彼らはこちらを一瞥して、何かの噂話をするように顔を突き合わせる。きっと、僕の悪口でも言って楽しんでいるのだろう。そんな負の想像を膨らませながら、僕は庭園の端に設置されていたベンチに腰掛ける。そして、ゆっくりと天を仰いだ。  やっぱり、憎らしい晴天だ。僕を薄ら笑っているかのような表情の空。僕は少し苦い気持ちになりながらも、天を眺め続ける。  しかし、そのようなある意味では平穏な時間は、長くは続かなかった。 「緊急、緊急! 今動ける騎士様は正門に集合してください! ブリタニアの兵が城下に侵入しているとの報告がありました! 至急お集まりください!」  庭園で寛いでいた人々の間でざわめきが起こった。ブリタニア兵。敵国の兵士。その連中が城下町まで来ているというのだ。それは驚かずにはいられない。  寛いでいる連中の中に騎士もいたのか、二人ほどの大男が慌てた様子で庭園から出ていった。敵兵が本拠地まで来ているとなれば、それはもう本拠地防衛戦と同義だ。流石に大部隊が来ているわけではないだろうが、まさか本拠地まで敵兵が侵入してくるとなると、アルビオン王に言われたように、やはり戦況は劣勢なのだろう。  僕は別に騎士ではないので、動く必要はない。でもきっと、勇者として戦うことを決めたのなら、加勢に行くのが筋だろう。でも僕は戦いを拒否した。だから僕が戦う必要はないはずだ。そもそも、ただの学生が兵士と対等に戦えるわけがない。僕は無力で、戦う力なんてない。最初っから戦えるはずなんてなかったのだ。僕は戦わなくていい、ここで守られていれば良い。  でも、少しだけ、ほんの少しだけ罪悪感が胸を掠める。アルビオン王は言っていた。召喚された勇者は、特異な能力を持っていると。僕はそんなもの持っていないと言ったが、自分が知らないだけで、もしかしたら何かしらの能力を転生時に得たのかもしれない。その能力について知る方法はわからないが、ブリタニアの兵士と対等以上に戦える力を持っているのかも――。だけど、僕は人なんて殺せない。どんな力があっても、持ちえた倫理観が邪魔をする。人を殺してはならない。日本での暮らしが、人殺しを忌避するべきものとして束縛する。きっと僕が人を殺したら、もう元には戻れなくなるだろう。それが怖い。僕はまだ、“普通の人間”でいたいと思っているのだ。 「――僕は、戦わなくていい。戦わなくて、良いんだ――ッ」  僕は現実から逃れるように、耳を塞いで目を閉じた。日本でも、僕は同じようなことをしていた気がする。現実から逃げようとして、家に引きこもった。でもこの世界で暮らせば、もしかしたら自分の生きる意味を見つけられるかもしれないと思ったんだ。だけどそれは勘違いだった。どんな世界でも現実というものは残酷で、甘くて、優しい世界なんて存在しないんだと。いくら現実から逃げたって、リアルは追いかけてくる、いつまでも。現実を見ろと、逃げるなと。どんな世界に逃げ込んだって、現実は残酷なんだ。だからきっと、いつかは向き合わなければならない。どれがどんなに苦痛だとしても、逃げようなどという安易な逃避は許されないのだ。  騎士を呼ぶ声が止んだ後、銅鑼のような音――恐らくサイレンのつもりなのだろう――が響き渡った。その中で、僕は現実から逃げ続けていた。いくら逃げたって、逃げ切れるわけじゃないのに。それでも僕は、見たくない現実から目を背け続けた。 「ジュン様、入りますよー。良いですか?」  緩慢に緩んだ思考回路に、聞きなれた声が響いた。これはミーナさんの声だ。恐らく、ベッドメイクに訪れたのだろう。だけど今僕には、ベッドから起き上がる気力はなかった。昼間の銅鑼の音が、未だ脳裏にこびりついて離れない。その音は、戦いを拒否した自分を責め続けているようで、どうしても拭うことができない。僕はそんなことを思いながら、ミーナさんの問いかけを無視していた。  結局、昼間の騒動は鎮静化された。というか、確かにブリタニア兵は城下町に侵入していたようだが、どうやら偵察兵の類だったらしい。予想通りと言ってはそれまでだが、やはりまだ王都に向けて大部隊を送り込むほどまでは追い込まれていないようだった。だから良いというわけでもなく、そもそも偵察兵が王都に侵入できるくらいまで戦況は悪化していると考えた方が良いだろう。やはり、このまま何の手も打たないようでは、アルビオンは負けてしまうはずだ。そのための勇者召喚だったのに、肝心の僕が役に立たなくて非常に恐縮である。  ミーナさんは呆れたように溜息を吐くと、僕の返事を待たずにドアを開けた。彼女は僕の様子を見て、再度溜息を吐く。使用人にまで呆れられて、本当に情けない。だけど、僕に勇者として戦う勇気はなかった。人殺しなんて、できるわけないのだ。 「もう、そんなにゴロゴロされていると、夜寝られなくなりますよ。――ほら、どいてください。布団を整えますから」  またもや彼女は僕の返答を待たずにベッドまで歩み寄ると、僕の身体を上手にどけながらベッドメイクを始めた。このようにベッドに寝転がっている状態でベッドメイクができる時点でかなり器用なものだが、逆にそのような特技を見せてくれたが故に退こうという気力も湧かない。本当に怠惰だなと、僕は自嘲した。  僕には目もくれずベッドを整えるミーナさんを眺めながら、僕はあることに気が付いた。  ミーナさんは、僕が勇者として戦うことを拒否しても、ずっと支えてくれている。それは使用人として当然だと彼女は言うが、本当は僕に戦って欲しいのではないか。いや、それは当然だ。僕は勇者として呼び出された。だから勇者として戦って欲しいと思うのはだれしもそうだ。でもミーナさんは、僕が自分から戦うと言うまで待ってくれているのではないのか。僕はミーナさんに甘えていた。唯一僕に優しくしてくれるから。でも、いつまでもその関係が続くとは限らない。僕が戦いを拒否し続ければ、ミーナさんはいずれ呆れて僕を見放すのではないか。それは――なんとなく嫌だった。  自分に優しくしてくれる人を、裏切りたくない。僕がこんなに愚かでも、彼女だけは僕を支えてくれる。そんなミーナさんを、ずっと裏切り続けるのか。それは、嫌だ。でも戦いたくない。人を殺したくない。でもそれ以上に、自分に優しくしてくれる人を失望させたくない。  僕の中に、一つ明かりが灯る。それは矮小な一点に過ぎないが、僕にとってはとても温かな、道標ように思えた。 「ミーナさん」  僕はベッドメイクを続ける彼女の名前を呼んだ。 「どうしました?」  いつもの調子で、彼女はベッドメイクを継続しながら尋ねてくる。 「ミーナさんは、僕に戦って欲しいですか?」  彼女の手が止まった。しばらくの沈黙の後、ミーナさんがこちらと視線を交錯させる。 「どうして、そんなことを聞くんですか?」  僕は少し考えた後、 「――僕は戦いたくありません。だけどそれ以上に、期待を裏切りたくないと思っています。特に、――ミーナさんが期待してくれているのなら」  そう答えた。  ミーナさんは少しの間、僕の真意を読み取ろうとしてか、こちらの顔色を窺っているようだった。しかし、しばらくして彼女は口を開く。 「――私は、使用人です。それ以上でもそれ以下でもありません。ですから、主人のお世話だけできればいいのです。――しかし」  そこで言葉を区切ると、彼女は顔を上げた。 「きっとこの国の者は、ジュン様に期待をお寄せです。あなたが勇者として戦えば、この国は救われる。そんな思いを込めて、ジュン様をお呼びしたのですから」  ミーナさんの返答自体に、彼女の思いは込められていない。だけれど、僕にはそれで十分だった。  きっと、現実から逃げ切ることはできない。いつかは向き合わないといけない。だけど、きっと。誰かに期待されている内に頑張れる方が幸せだろう。ミーナさんの期待が僕の勘違いだとしても。僕が期待されていると思えば、それでいい。  ちょっとだけ、部屋の外に出てみよう。自分のことを傷つける世界に、少しだけ踏み出してみよう。現実は残酷だけど、きっとどこか美しいと思える場所があるかもしれない。僕が戦ってミーナさんの苦労を減らせるなら、それでいいと思えた。 「ミーナさん、僕は――」  確かな決意を胸に、僕は確固たる思いを口にした。 「ちょっとだけ、頑張ってみます」  現実と戦おう。世界と、戦ってみよう。今まで逃げ続けてきたリアルに、少しだけ向き直ってみる。上手くいかないかもしれないけど、やれるだけやってみよう。それがきっと、自分の価値や居場所を見つけることに繋がるから。  ミーナさんにそう告げると、彼女は少し顔を伏せた。そして、ゆっくりと顔を上げる。 「そうですか、それは――喜ばしいことです」  僕は大きく頷いた。ミーナさんも笑顔を顔に浮かべて、 「ですから、殺さなければなりませんね」  そんな言葉を口にした。
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