第一部

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 僕の理解が追い付かない中、彼女は給仕服のポケットに手を突っ込み、その中から銀色に輝くナイフを取り出す。  何かの冗談か。そう思って、引き攣った笑顔を浮かべる。 「どうしたんですか、いきなり。ちょっと驚きましたけど、まさかそれ、持ち歩いているんですか」 「ええ、そうですよ。いつでもあなたを殺せるように」  ミーナさんは笑顔のまま、こちらに近づいてくる。燭台の明かりの反射で、銀色のナイフが輝く。その光り方から、そのナイフが偽物ではないことに気が付いた。  いよいよ、僕は身の危険を理解する。 「ミーナさん、それ以上近づかないでください」 「嫌ですよ。もう少し近くでお話しましょう?」  僕はベッドの端の方へ後ずさっていく。ミーナさんもベッドの上に馬乗りになって、こちらに迫ってくる。 「こ、来ないでください!」 「ふふ」  ベッドの端に辿り着いて、これ以上後ろに下がることができないことを悟る。ミーナさんは目の前まで迫っていた。彼女の握るナイフが妖しく煌めく。僕はなんでこのような状況に陥ったのか理解できず、脳は混迷を極める。  ミーナさんが、持ったナイフを両手で握り、頭上に振り上げた。僕はあまりの恐怖で声が出せず、助けを呼ぶことができない。ミーナさんは笑顔を顔に張り付けたままだ。それはまるで能面を被ったかのような様子で。僕は振りかざされる凶刃を回避しようと身体を動かそうとするが、恐怖のあまり身体が一切動かない。このままでは、本当に殺されてしまう。まだ悪い冗談だという期待を捨てられないが、彼女の発する殺意と呼べる雰囲気から、これが冗談ではないことを僕は知っていた。だから、避けないと本当に死んでしまう。僕はそう思いながらも、身体を動かせずにいた。  ミーナさんが腕を引き絞り、ナイフを僕の胸の方へ振りかざす。極限状態に陥ったからか、その動きがどうもスローモーションのように僕の瞳には映った。放物線を描きながら、僕の胸を貫かんとする刃。僕はその様子をどこか俯瞰した心持で眺めながら、ここでもう一度死ぬということを悟った。  ナイフが胸に迫る。勢いが衰えることはない。やっぱり、本気だったんだ。ミーナさんは、僕のことが嫌いだったんだろうか。勇者として呼び出したのに、働こうとしないから。その世話を任されて、とても辛い思いをしたんだろう。なんだ、結局僕のせいじゃないか。だったら、ここでまた死ねばいい。やっぱり僕はこの世界でも役立たずで、世界からもう一度消えようとしていた。不要なものは消える運命にある。だから、僕はいない方が良いんだ――。そう思って、その殺意を甘んじて受けようと思った時だった。  心臓が、ドクンと跳ねた。それは今まで経験したことがないような鼓動の仕方で、僕は一瞬意識を明暗させる。このような状況下にありながら、なんだか夢を見ている気分だった。目の前の現実が淡く揺らぎ、無意識の世界へと誘っていく。僕は昏い湖に沈んでいくかのような感覚を味わった。  どろどろとした液体が、身体中を覆っている。僕は下へ下へと沈んでいるようで、まるで現実味がなかった。その中で、僕はまた死んだのかなと思う。ベランダから飛び降りて自殺をしようとしたときは、死んだという感覚がなかった。その後転生したわけだから、死んだかもわかっていないわけだが。しかしその感覚とは異なっているわけだし、やはり僕は死んだのだろうか。  もう、なんだかどうでも良くなってきた。少し頑張ろうと思ったところで、心の支えだったミーナさんが殺しにかかってくる。本当に嫌な世界だ。こんな世界で生きるくらいだったら、死んだ方が良いのかもしれない。  また逃げるのか。  違う、逃げるんじゃない。諦めるんだ。結局、生きてたっていいことないんだ。だから死ぬ。それだけだ。僕は悪くない。悪いのは世界だ。僕に優しくない世界が悪い。だから――  殺せ  ドクン。また心臓が大きく跳ねた。それは何かに共鳴するがごとく。  殺せ  頭の中に、紅い意識が割り込んでくる。お前は誰だ。何をしに来た。  殺せ  昏い湖に沈む僕は、いつしか自分の右手にナイフが握られていることに気が付く。  殺せ  ふと、目の前にナイフを構えた人影があることに気が付く。それは少しずつミーナさんの姿に変化していった。  殺せ――ッ  僕の身体が勝手に動いた。そして、振りかざされるナイフを避けて、僕は自分の持っていたナイフを、彼女の首筋に突き刺した――  気がついた頃には、僕はベッドから跳び上がっていた。  振りかざされる凶刃を避けて、僕はベッドから転がり落ちる。床に落ちてしまったからか、少し身体の一部を痛めてしまうが、別に造作もないことだ。  瞬時に起き上がって、僕はミーナさんと相対する。彼女も僕を逃がさないように素早く出入り口の方へ向かい、そこを封鎖していた。これでは逃げることができないが、それでも何故か水を打ったように冷静な自分がいる。まるで僕ではないかのように。僕以外の誰かが、僕の身体を動かしているみたいに。 「――逃がしませんよ。これは私の使命ですから」  彼女はそう言うと、持っているナイフをさらに強く握りしめた。 「――使命?」  僕は尋ねた。ミーナさんはフンと鼻を鳴らす。 「私はそもそもアルビオンの人間ではありません。私は――ブリタニアの者です」 「ブリタニア――」  ブリタニアといえば、アルビオンに対して侵略を行ってきている敵国のことじゃないか。どうしてそのブリタニアの人間が、アルビオンの王城で働いている。 「ええ、ご想像の通りです。前にお話ししましたよね。私には故郷があると。それがブリタニアです。私は幼い頃からスパイとして育てられ、アルビオンの使用人として王城に侵入しました。その任務は――アルビオンの切り札である勇者もし召喚された場合に、暗殺すること」  僕はなんとなく合点がいった。彼女がどうして今まで僕を殺さないでおいたのか。どうして戦うと言ったら、態度を豹変させたのか。 「勇者が召喚されない限りは、私はただ情報を横流しするだけでよかった。しかしあなたが召喚されたから――私はあなたを殺さねばならなくなった。でもあなたは腰抜けだったから、殺すまではせず監視を続ければよかったのに。しかし戦うと言い出したら――使命通り、殺すしかありませんよね」  ミーナさんは不敵に笑うと、ナイフをもう一度持ち上げながら、こちらに襲い掛かってきた。僕は迫りくる彼女を冷静に観察しながら、接触する寸前でそれを回避する。 「――ッ! 大人しくしてください!」  叫ぶミーナさんから距離と取りながら、僕は冷静に思考した。 彼女はブリタニアのスパイ。勇者暗殺が任務。だから僕を殺そうとしていたが、そもそも戦う気がなかったから監視に留めていた。だけど僕が戦うと言ったから、殺さざるを得なくなった――。なんだよ。最初っから、僕に優しくしてくれていたわけじゃなかったのか。任務のために、祖国のために、むしろ僕が戦わないことを喜んでいたのか。僕はなんだか悔しい気持ちになって、それ以上に殺意が芽生えた。 殺意――殺意? 僕が人を殺そうと? そんなはずはない。僕はちょっと前まで一介の高校生で、殺人なんかとは無縁だったはずだ。だから、僕が殺意に目醒めるなんてことはないはずだ――  殺せ  心臓が跳ねた。  殺せ  身体を巡る血液が、闘争を待ち望んでいるかのようだった。  殺せ、殺せ、殺せ、殺せ――! これは、断じて僕の殺意じゃない。僕は人を殺そうだなんて思わない。でもなんで、僕は今、どうしてこんなに目の前の彼女を殺したいんだろう――? ナイフを持ってもう一度迫ってくるミーナさんを見て、僕は興奮していた。僕を殺そうとしている。だから、これは正当防衛だ。だからきっと、彼女を殺しても責められない。そもそもミーナさんはブリタニアのスパイだ。だったら殺しても、この国の人間は誰も文句を言うまい。 僕はもう、内なる獣性を抑えられそうになかった。僕は制御できない自分の殺意を堪えることをついに諦める。その瞬間、血に飢えた獣のような意識が、僕の表層を覆いつくしていった。  ナイフが迫る。その切っ先を静かに眺めながら、胸元まで接近するのを待った。ちょうど先っぽが胸に突き刺さる寸前。僕は彼女の腕を掴んで、ナイフの進行方向を捻じ曲げる。ミーナさんはまさか避けられると思っていなかったようで、驚きの表情を浮かべていた。そのまま彼女の腕を引っ張り、腕をぴんと伸ばさせる。伸びきった肘の関節に向けて、僕は腕打ちを食らわせた。  もちろん、関節の外側から強い打撃を加えたら、その部分は酷い場合折れてしまう。今回もその例に違わず、彼女の肘は僕の打撃によって、逆方向に折り曲げられてしまった。  ボキン、という骨が砕ける音と共に、ミーナさんが苦痛に顔を歪める。当然ながら、骨が折れたのだから痛いに決まっている。しかし僕は罪悪感の欠片もなく、追加の攻撃を開始する。  肘を破壊したことにより、彼女が握っていたナイフが離される。それが地面に落下してしまう前に、僕はナイフを掴み取り逆手で構えた。  今、ミーナさんは腕が折られた痛みで動けずにいる。殺すなら、今が絶好の機会だ。  僕は何の躊躇もなく、奪い取ったナイフを、彼女の首筋に突き立てた。  腕に、肉を引き裂く不快感が付着する。肉を断ち切る初めての感覚に、僕はそこで初めて冷静さを取り戻した。  ミーナさんが吐いた血が、僕の顔にかかる。それに驚いた僕は、持っていたナイフを取り落とした。  ミーナさんは速やかに絶命して、脱力した身体は僕の方に倒れ掛かってくる。どさり、と人間の重みが僕の肩にかかった。一人分の重み。生命の重み。僕はそれを奪ってしまった。その事実に、理性が吹き飛びそうになる。  倒れ掛かってきたミーナさんの身体が、床に落ちた。僕はそれを見下ろす。彼女の首筋から、未だに血液が漏れ出ていた。これを、僕がやったんだ。勘違いでも夢でもない。僕が、殺した。自分のものとは思えない殺意、いや獣性に呑まれて、人を殺してしまった。 「あ、ああ」  取り返しのつかないことをしてしまった後悔に、僕は意識を明暗させる。僕を殺そうとしていたとはいえ、殺害する必要はなかったんじゃないか。助けを呼べばそれで良かった。なのに、僕がこの手で生命を絶った。その罪深さに、背筋を冷たい汗が伝う。 「ああああああああああああ――ッ」  僕はこれが悪夢の始まりに過ぎないということを、この時まだ知らなかった。
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