第二部

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 不衛生としか言いようのない不快な臭いを感じ取り、僕は重い瞼を開いた。  視界が開けていく。明りというものは殆どなく、周囲の状況を確認することはできない。しかし、唯一確認できた鉄格子と周囲の悪臭から、ここがまともな場所ではないことを悟る。  現在の状況を確認するため、僕はゆっくりと立ち上がった。男に蹴られた影響がまだ続いているのか、頭部が未だに重たい。変に脳内で出血など起きていないと良いが、それすらも確認する手段はなかった。このような異世界に飛ばされて、目に見えない怪我や病気になった時、それはすなわち死を指すのだ。だから僕は、脳に変な後遺症が残っていないことを祈るしかなかった。  立ち上がると、足に違和感を覚える。不思議に思って地面を確認すると、そこは整備されていないごつごつした岩石が露になっていた。どうやらここは牢屋のようだし、環境を整える必要性を感じていないのかもしれない。  僕はそして、自分の服がぼろ切れに変わっていることに気が付く。携行品の類も全て奪われてしまったようだ。本当に、奴隷として扱われているらしい。僕は唇を噛みながら、鉄格子の方へ寄っていく。  鉄格子を目の前にして、僕はそれを掴んでみる。内部の荒れた状態とは裏腹に、鉄格子自体はかなり堅牢な造りになっていて、僕の力だけでは壊せそうにない。それと、鉄格子を挟んで向かい側にも隣にも、牢屋は設置されているようだった。つまりここは牢獄というわけか。  溜息を吐いて、その場に座り込んでしまう。僕は奴隷として捕まってしまったらしい。早いところ脱出しないと、本当に売り飛ばされてしまう。しかし脱出するにもどうすればいい。堅牢な鉄格子を破ることはほぼ不可能だろうし、食事の配膳の時に隙を見て鍵を奪うという芸当も難易度が高いだろう。しかし、手足が枷などで拘束されていないのが幸運と言えば幸運か。でも、脱出は極めて困難だろう。下手に抵抗して殺されるくらいだったら、大人しく売り飛ばされた方がマシかもしれない。 「――おい」  そんな時、背後から声がかかった。僕は驚いて、後ろを振り返る。  そこには、やせ細った男が座り込んでいた。どうやら、同室の人間がいたらしい。彼はかなり痩せこけていたが、身長自体はかなり高そうに見受けられた。 「もう一人ぶち込まれる前に売られちまうかと思ったよ。ようこそ、新入り。ここは退屈でね、誰でもいいから話し相手が欲しかったんだ」  男は立ち上がると、こちらに歩み寄ってきた。そして、地面に座り込んだ僕に手を差し伸べてくれる。 「あ、ありがとう」 「ここでの暮らしは俺が教えるよ。と言っても、ずっとここで大人しくしているだけ、だがな」  男は、骸骨のように痩せた頬を引きつらせて、不格好な笑顔を浮かべた。僕も取り敢えず笑顔を返す。 「新入り、名前は?」 「僕は、ジュンだよ。よろしく」  男は不思議そうな顔をした。 「ジュンなんて名前、聞いたことないな。地方の出身か?」  まさか異世界から召喚されたなんて言えないので、曖昧に頷いておく。 「そうか。俺はベンだ。ベン・アインズ。よろしく」  前はこの世界の人々にファミリーネームはないのかと思ったが、別にそういうわけではなかったようだ。僕はベンと名乗る男に頷き返す。 「早速だが、晩飯がそろそろ来る。当たり前だが、そう大したものじゃない。俺を見りゃわかる通りだ。あまり期待するなよ」 「う、うん。わかった」 「それまでの間、お前の話を聞かせてくれよ。地方出身なら、色々俺の知らない話を持ってそうだし」  そう言って笑うベンに笑い返すと、僕たちは牢屋の隅の壁に寄りかかって、他愛無い会話を始めた。  ベンもこの国の人ではないようで、アルビオンを訪れた際に奴隷商人に捕まってしまったらしい。彼のような体格の男が捕まるとは考えにくかったが、その当時はかなり精神的に疲弊していたようで、隙を突かれたらしい。彼が捕まったのは一週間ほど前のことらしくて、同室の相手がおらず暇をしていたようだ。彼は僕が来たことを大いに喜び、話を聞くと言いながらも、たくさんのことを話してくれた。僕はそもそもこの世界に疎かったので、彼の話はとても参考になる。  そんな風に話していると、牢屋の外から何かが投げ入れられた。  僕は驚いて目を丸くするが、ベンは深く溜息を吐く。 「メシだ。ほら、拾おうぜ」  ベンが立ち上がって、投げ入れられた何かを拾ってくる。それは二切れのパンで、物凄く固そうだった。ベンは僕の分まで拾ってきてくれたようで、差し出された片方のパンを受け取る。ベンがパンに齧りついたのを見て、僕もパンを口に入れた。  パン自体は見た目通り恐ろしく固くて、咀嚼すること自体がとても困難だった。しかしだからといって食べないという選択肢はなく、僕は顎が痛くなるのを感じながら食事を続ける。固いパンを齧り続けて、ようやくその大部分を飲み込むことに成功した。 「ほら、大したもんじゃないだろ。後で水も配られるから。それも濁ってて飲めたもんじゃないけどな」  ベンが笑ったのを見て、僕も曖昧に笑い返した。汚水を飲んだことで腹を下さないかが非常に心配なところではあるが、今気にしても仕方ないだろう。僕はパンを全て平らげると、牢屋の壁に背中をつけた。 「なぁ、ジュン。唐突で悪いんだが」  ベンが声をかけてきた。僕は適当に返事をする。 「ここから出たいと思わないか?」  僕はベンの方を見た。彼は痩せこけていながらも、真剣な眼差しでこちらを見つめている。 「どういうこと?」 「そのまんまの意味だ。ここから出たくないか?」  僕は少し考えた。ここから出られなければ、奴隷として売られる運命にある。しかし脱出したところで、働き口もないので野垂れ死ぬだけだ。そのどちららが良いか聞かれているのだろうか。 「もし脱出できても、僕、働くところがないんだ」 「だったら、良い場所を紹介してやるよ。ここを出た後は任せてくれればいい。どうだ」  ベンが仕事を紹介してくれるのなら、生き永らえる可能性はあった。しかし、こんな世界で暮らしてどうなる。僕は勇者として呼ばれて、そして追い出された。生きる価値なんてないんだ。だったら、早いところ死んだ方がマシとも言える。  僕は顔を上げて、ベンの方を見た。短い間だったが、ベンは良い人のように思える。だから、少し自分のことについて話しても良いかもしれない。 「ねぇ、ベン」 「ん?」  少し逡巡したが、僕は迷いを絶って、彼に打ち明けることにする。 「僕はさ、生きる意味っていうのが分からないんだ。どうして生きているんだろうって、そう思ってる」  ベンはそれを聞いて、ふむ、と顎に手を当てた。 「そんなことを考えられるってことは、意外といい出身なのか? まぁそれはどうでもいいか」  ベンは息を吐くと、天井を見上げた。もちろんそこは真っ暗で、何も見とることはできない。 「生きる意味っていうのは、がむしゃらに生きて、ふと自分が来た道を振り返った時に、見つかるもんだろうよ。普段からそんなこと考えてちゃ煮詰まっちまう。これでどうだ?」  僕はベンの言葉を反芻する。一生懸命に生きて、ふとした瞬間自分の人生を振り返った時、そこに意味が見えてくる。普通に生活していては、そんなもの見えない。つまりは、とにかく生きろ、ということか。そうすることで、いつか自分の運命に気が付くから。  僕はベンの話を聞いて、少し胸の支えが和らいだような気分になった。生きる意味は、生きながら見つければいい。とにかく今は、懸命に生きろ。 「そっか、そうだよね」  僕は自殺してこの世界に来た。そして、この世界でも役目を終えようとしている。しかし、与えられた役目以外にも、自分にとってできることはあるはずだった。それは例えばこの状況なら、ベンと一緒に牢屋を脱出すること。それは僕のためでもあるし、ベンのためでもある。僕に優しくしてくれたベンの頼みなら、危険があっても大丈夫な気がした。 「いいよ、一緒に逃げよう。ここから脱出するんだ」  そう決意を口にすると、ベンは目いっぱいの笑顔を浮かべてくれた。 「そう言ってくれると思ったよ。よろしくな、相棒」  ベンはニカッと笑うと、拳を突き出してきた。僕はその拳に、自分の拳をぶつける。  友情というものは慣れないが、悪い気はしなかった。 「それでだ。ここから脱出する作戦だが――」  ベンは秘密めかして、顔を寄せてきた。僕も頷いて、ベンの作戦概要に耳を傾けた。  しばらく時間が経って、ベンが言うに夜中になったくらい。  ここのような環境では、現在の時刻を知ることは難しい。唯一時間がわかる出来事と言えば、食事や水の配膳だけで、大体それで時刻を把握するしかなかった。  真夜中になったことを見計らって、僕は床に転がって、苦しそうにもがき始める。  そして、ベンは手筈通り、看守に気付かれるよう大声を出した。 「誰か来てくれ! 病気みたいなんだ!」  しばらくそうしてベンは叫んでいたが、ようやく看守らしき男がやって来た。 「うるさいぞ、黙ってろ!」 「でも、苦しそうなんだよ。少し診てやってくれよ」 「上からの命令でな、病人は放っておくそうだ」 「そんなこと言わずに。伝染病だったら、他の人たちにもうつるぞ?」 そう言うと、舌打ちして看守が鉄格子の扉を開いた。彼の姿を観察する。看守は背中の方のベルトに鍵をぶら下げていた。そして、山刀らしきものを携帯している。 「ほら、お前、どこが痛むんだよ?」 そう言って僕に近づいていった看守に対して、ベンが後ろから襲い掛かった。  ベンは叫ばれないように口を手で塞ぎながら、気道を圧迫しているようだ。しばらく看守は懸命にもがいていたが、ついに意識を失ったのか、だらんと手をぶら下げた。 「うまくいったね」  僕は立ち上がって、ベンの方に歩み寄った。ベンもしてやったりといった表情で、こちらにウィンクを返す。 「そうだな。取り敢えず、こいつの身ぐるみを剥がすか」  そう言って、ベンは看守の服や武器、携行品を剝ぎ取っていく。その中で一番大事なのは、武器と牢屋の鍵だ。  ベンは山刀らしき武器を奪うと、こちらに鍵束を投げ渡してきた。 「予定通り、それで他の奴隷たちを解放するんだ。それで一斉に脱走する。いいな?」  ベンの言葉に頷いて、僕は牢屋を出た。  牢屋を出ても、辺りは殆ど暗闇に包まれている。申し訳ばかりの燭台が設置されているだけで、数メートル先を見通すことはできない。僕が牢屋から出ると、他の牢屋の住人たちが、一斉に鉄格子にしがみついて助けを乞うてきた。 「頼む! 牢を開けてくれ!」 「お願いだ! 鍵を!」  彼らはやはり栄養失調で痩せこけていたが、最後の奮起とばかりに声を上げていた。僕はもちろん全員解放するつもりだったので、安心させるように声をかける。 「大丈夫です! 全員助けますから、慌てないで!」 僕はまず、目の前の牢屋の鍵を開けた。そこから嬉し涙を流しながら出て来た二人の男に鍵を分けて渡して、他の人を解放するように伝える。男たちは頷いて、左右に散っていった。  僕は自分が囚われていた牢屋に戻って、ベンに声をかけた。 「鍵を渡して、解放してもらってる。すぐに出られるよ」  件のベンも身包みを剥ぐ作業を終えたようで、山刀を腰に携えながら、こちらに向き直った。 「わかった。次は他の看守を倒さないとな。――恐らく、牢屋を抜けた先に看守室がある。そこに全員で突撃するぞ」 「わかったよ。みんなに伝えてくる」  そう言って、僕は牢屋を出た。その頃にはもう、殆どの奴隷が牢屋から解放されており、みんな歓喜に打ち震えていた。 「皆さん、聞いてください! ここから脱出するためには、みんなで協力する必要があります。まず、みんなで看守室に押し入って看守を無力化、武器を奪います。そして上階に向かい、奴隷商人たちを倒しながら脱出します。良いですね?」  そう呼びかけると、奴隷たちは頷いてくれた。これで準備は万端だ。 「良いぞジュン。――みんな! 俺が先鋒を務める。俺の後ろから付いてきてくれ」  ベンはそう呼びかけると、一人牢屋の先の方へ向かっていた。僕たちも背後から付いていく。看守が来ないことから、まだ脱走はバレていないように思えた。今がチャンスだ。早いところ看守室を制圧しよう。  少し階段を上ったところに、看守室らしき場所はあった。ベンがその前で立ち止まって、僕らに目配せする。僕が頷いたのを確認すると、ベンは勢いよく看守室のドアをぶち破った。 「な、なんだお前らは?! やめろ!」  ベンが一気に突撃して、三人ほどいた看守たちに襲い掛かった。彼は看守の一人の首を刎ねると、他にいた看守たちも斬り捨てる。非常に素早い動きで、その動作はベンが戦い慣れていることを示していた。  三人を仕留め終わると、ベンは彼らが持っていた山刀を僕に投げ渡してくれる。 「一つはジュンが持て。他のは分配してくれ」  ベンに頷き返して、僕は少し戸惑いながら、戦える体力のありそうな男二人に山刀を渡した。 「よし、次は上階を制圧するぞ」  僕は山刀を握りしめて、生唾を飲み込んだ。  ベンは武器を持てと言ったが、流石に僕は戦えないだろう。持っているだけ無駄だと思うが、今更他の人に渡すわけにはいかない。僕は看守が来ていた服を奪って着ながら、山刀を腰に差した。
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