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太田は、自分の指示とは分からないように、彼女に横領の不正処理をやらせていたのだ。つまり会社に訴えても、太田が横領をしたとの証拠は無く、彼女が不正処理を行ったという事実以外は残されていないというのだ。
「だから……どうしたら良いのか分からなくなって……」
堪えきれなくなったのだろう、うつむいた彼女の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。
「ごめんなさい……わたし……誰に相談すればいいか……」
彼女は 頬を濡らしたまま顔を上げると、私をジッと見つめる。
「岸川さんから言われた言葉……困ったことがあれば何でも相談してねって……ごめんなさい! わたし、もうそれしか思いつかなくって!」
ああ……確かにそんなことも言ったかぁ……
私は昨春の事を思い出した。
私達と同じ経理部に配属されたのは、彼女の他に2人の新卒男子だった。歓迎会の席で、確かに「困ったことがあれば……」とは言ったが……それは他の新卒男子がお 酌に回って来た時にも、それぞれ伝えた『 社交辞令』に過ぎないひと言だったはずだ。
それはそれとて、さてどうしたものか……。横領がバレる日は、いつか必ず来るだろう。その時、彼女にとって不利な証拠しか残されていないなら、結局は全ての罪を彼女が負わされることになる。
かといってこの件を 公にしても、太田との肉体関係・恋愛関係もあった彼女の証言を信じてもらえるだろうか? 良くても共犯、悪ければ『別れた男も巻き込んで罪を着せようとする悪女』と見られるかも知れない。何せ、太田は一切の証拠を残していないというのだから。
うーん……困ったぞ? こんな状況はシミュレーションしていなかったなぁ……
◆ ◆ ◆ ◆
私はストーリーに行き詰まりを感じながら、弁当のフタを閉じた。
愛妻弁当を会社の屋上で食べながら、有事に備えてシミュレーションを日々繰り返すのが日課だが、今日の「横領事件パターン」はなかなかに解決が難しかった。いや、解決の糸口もつかめなかった。
これがうまく解決すれば、もしかすると私が彼女と……
いやいや! そうではない! あくまでも『困っている部下を助ける』のが私の 務めでは無いか!
私は、頭を振って理性を取り戻すと、同じように屋上で昼食を食べている社員たちを見回した。
今日も西角のベンチで、楽しそうに2人飯の時を過ごしている太田と彼女の姿が目についた。クソッ……
私はこれまでのシミュレーションをリセットし、別のパターンでのシミュレーションを始めることにした。
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