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「飲む?」
一人取り残された杉山さんは自動販売機から、ジュースを取り出すと、葵に向かって差し出した。
葵に飲みたい気持ちはなかったが、いつも部屋の片隅で、ただ黙々と仕事をこなしている杉山さんが差し出したものだから、思わず受け取ってしまっていた。
「実はさ、父が手術することになっちゃって、実家のある地区の支店に異動させてもらうことになったんだ」
そういう異動の仕組みは聞いたことがあった。だが使っている人は年齢の高い層ばかりで、自分たちの年代で話題になったことはない。
「まあ、迷ったんだけどね。新入社員時代から、この地域の支店しか行ったことがないから」
聞きもしないことを、とつとつと杉山さんは語り始めていた。葵は微笑みを浮かべようとするが、どこか虚ろな気分だった。
「彼女らも噂好きだよね。まあでも、いつの時代も噂が好きな人はいるけど」
葵は何と応じていいか分からない。
「あのさ、葵さんの自由だけど、別に会社を辞める必要はないから」
杉山さんはペットボトルのスポーツ飲料を口にする。今日は暑い。
「葵ちゃん、……ええと、今期、本社で役員になったここの元部長、昔、私と付き合ってて、結婚に至らなかったって噂とか聞いたことある?」
聞いたことはなかった。杉山さんについて聞いたことがあるのは、ずっといる古い人。それだけ。
葵が首を振ると、杉山さんが一瞬驚いたような顔をして、そして笑った。
「そうか、そうなんだ。まあ、そんなもんだよね」
ひとしきり笑うと、真顔になった。
「そんなものだから、葵ちゃんも辞める必要はないよ」
明るく笑っている。
「メリットとデメリットを考えればいいから。ここにいたければいればいいし、異動したいとこがあれば、それもよし。いちいち他人の事情に合わせているときりがないからね。まあ、どうしても辞めたいなら引き止めないけど」
葵には、やはりどう答えていいか分からなかった。やりかけの仕事はある。ここでやりたいこともある。
「じゃ、私は先に仕事に戻るから。北沢さんはゆっくりしてね」
無言で葵はうなずいた。
そして杉山さんが自動販売機のコーナーを去ろうとしたときのことだった。立ち止まって振り返った。
「あと、個人的な意見にすぎないんだけど、滝村くん、ああいう人だから」
ジュースを飲んでいた葵は、思わず杉山さんを見る。
「葵ちゃんが入る前にも、付き合っていた人が何人もいたよ。そんな男。誰とも結婚する気はなかったんじゃないかな。もし結婚とか考えているなら、避けたほうがいいね」
そう告げると、足早に自動販売機コーナーを出て行った。葵はいつになく、よく喋る杉山さんに呆気に取られていたが、急に笑いが込み上げてきた。
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