夏の終わりの雨

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 滝村主任と上野さん、婚約解消になったんだって? 知ってる?  数日もすると、今度は事務補助パートの主婦たちを中心に、再び、噂話(うわさばなし)が始まっていた。ターゲットはいつの間にか、葵から沙耶に移っている。部屋の片隅で、上野沙耶は居心地悪そうにしていた。  葵は、素知らぬふりで仕事を続ける。急いで片づけたい仕事もあった。  滝村主任、エリートだし、狙ってたんじゃない?  実家もお金持ちだって。  えーっ?そうだったんだ。  つまり、そういうことよ。  今の女の子って、人の彼氏でも平気で取っちゃうのね。  ほんと、信じられない。  やだー。  時間と共に、心無い(うわさ)へと変わっていく。  独特の雰囲気に、居たたまれなくなったらしい上野沙耶が、ふいに席を立った。用事を装い、財布を持って部屋を出ていく。声を掛ける者は誰もいなかった。  その沙耶が、葵のデスクの向こう側の通路を通るとき、一瞬、葵の方を見た。助けを求めるような、すがるような眼差しで。ーー  だが、葵は冷ややかに険しく、棘のある視線で、沙耶を見つめ返しただけだった。その険しい視線に怖気づいたらしい沙耶は、急ぎ足で去る。  葵は気を取り直すと、再びパソコンに向かった。ここは職場だ。仕事をするところなのだ。  葵は自分の席の窓から、急に降り出した夕立を横目で見ながら、重人の部署から依頼のあった案件の書類を淡々とまとめていく。  眼下に見える歩道では、思いがけない急な雨に、通行人たちの傘が、色とりどりに次々と開く。まさに夏の光景だった。  その人混みの中に、財布を持った沙耶が走り出ていくのが見える。傘もささず肩をすぼめて、濡れながら舗道を駆け抜け、横断歩道を渡っていく。その小さな背中は泣いているようだった。  葵は思わずため息をついた。深く傷つけられて、今更、優しい気持ちなど持てるはずもない。  そんな人間に都合よく助けを求めようなんて、そんな図々しい考えが受け入れられるとでも思っているのだろうか?――  葵も重人とはもう仕事の話以外しなくなっていた。何か話したそうにしてくるがスルーするだけ。もう関係ない。すべては終わったのだから。  沙耶の流産を切っ掛けに婚約を解消した重人の評判は、女子社員の中ではよいものとはいえなくなりつつあった。  結局、自分で蒔いた種は自分で刈り取るしかない。  新入社員だから、  可愛いから、  あるいは、  エリートだから  モテるからで  免除されたりはしない。そういうものだ。  そう、自分にはもう関係ないけど。――  葵が深呼吸する。そして顔を上げると、ドアの近くの席にいる杉山さんと目が合った。杉山さんは、照れくさそうに、ちょっとだけ微笑んでくれる。なので葵も微笑み返した。  年代の違う杉山さんとは、あまり話をすることはなかったのだが、この頃は言葉を交わすことが多くなったような気がする。美味しいお菓子、面白かった映画。おすすめの旅行先。どれも他愛のない話ばかり。杉山さんは絶対に踏み込んでこなかった。そうやって、まだ女子社員が少なかったころから、この会社で生き残ってきた人だった。  葵は伸びをすると、さっき自分で淹れた林檎(りんご)の香りのするフレーバーティを口に含んだ。いい香りだ。  あと少しで終業時間になる。今日はノー残業ディ。杉山さんから聞いたおすすめのスイーツでも買って帰ろうか。  葵はふと窓の外を見た。都心のオフィス街。空を覆っていた黒い雲は去り、空は明るくなり始めている。    気が付けば、雲間からは光が差し始め、夕立の雨は上がっていた。  もうすぐ、この夏も終わる。  そして、きっと、鮮やかな赤と黄色で彩られる美しい秋が訪れるだろう。
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