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それからさらに、ひと月ほど経ってからのことだった。
葵の仕事の落ち着き始めた週が開けた月曜日、あの上野沙耶が出勤してこなかった。
他の若手の女子社員たちが、声を出しての会話はしないが、目配せしあっているのが、葵には分かった。上野沙耶と一緒に仕事をしている同年代の女子社員たちだ。
葵が彼女らの方を見ると、なぜか慌てて視線を逸らす。その独特の雰囲気が、噂好きの一部の事務補助パート主婦たちにも伝わるにちがいなかった。
その日の昼休み、葵がエレベーターを使わないで、階段で自分のフロアまで上がったときのことだった。廊下の奥の飲み物の自動販売機の前に、女子社員たちが三、四人集まっていた。
「ねえ、上野さん入院したんだって」
「入院?」
「病気なの?」
「ちがうってば」
「聞いていないの?」
女子社員たちが顔を寄せ合う。
「何も聞いてないもの」
「流産したんだってさ」
「えーっ」
周りを伺いながら囁いている。
「じゃあ、おめでただったって噂、本当だったんだ」
隣の自動販売機で、飲み物を買っていた古参の50代の正社員の杉山さんが困惑したように顔を上げた。
杉山さんはベテラン社員の一人で、大抵は、単独で仕事をしていることが多い。最近、しばらく休みを取って、実家へ帰っていたせいもあって杉山さんは、何も知らなかったようだ。戸惑い気味の表情で話の輪の近くにいる。おっとりしている彼女は、普段から噂話に入ることはなく、おかげで女子社員らの警戒心は非常に薄かった。
実は、こういうタイプは案外いろんなことを知っていたりするものだ。
「てことは、チーフの北沢さん、すっごくかわいそうじゃないですか」
しーっ!
誰かが唇に指を押し当てる。葵の姿が見えたらしかった。
どうもしない。――
葵は思う。
だが女子社員たちは慌てたように、どこかへ去っていった。
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