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「弥生! 待てって!」
糢袈が背後から何度名前を呼んでみても、ひたすら前へ前へと足早に突き進む弥生の足は止まる気配がまるでない。振り返ってもくれない。
弥生は走っている訳ではないが、糢袈は少しも弥生に追い付く事が出来ない。
横断歩道の信号機がちょうど赤に変わり、ようやく弥生は足を止めてくれた。
それでも弥生は隣に立つ糢袈の顔を見ようとはしない。ただ真っ正面だけを一点に見据えている。
糢袈の視線の先は弥生だけを捕えて離さないのに、弥生は今、自らの意思で糢袈の姿を瞳の中に映そうとはしない。
空気を通して弥生の静かな怒りが伝わってきたので、不安になった糢袈は焦らずにはいられない。
「弥生、何でそんな不機嫌なんだよ」
子供っぽく拗ねたり、構ってほしいと泣きべそ顔になったりするのとは違う。
一度、弥生を本気で怒らせてしまうと弥生は別人のように恐くなるのだ。
「僕もモカから沢山褒めてもらいたかった」
やっぱりそれが原因かと、糢袈は決まり悪そうに肩を落とす。
「あれは俺の本音じゃない事くらい、弥生も分かってるだろ?」
皆が見ている手前、糢袈は気恥ずかしい感情のほうが勝ってしまい、どうしても素直になれなかった。
後々、弥生が悲しむと分かっていても、糢袈はたった一言だけの誉め言葉さえも言えなかった。そんな己の振る舞いを糢袈は戒める。
「うん、モカの気持ちは分かってるよ。大人げなくてごめんね」
糢袈が弥生の為にネクタイをプレゼントした時点で、糢袈の愛情を疑う要素などどこにもない。
それでも弥生は糢袈の心の声ではなく、直接声に出した糢袈の気持ちを直接耳で聞きたかった。
そんな可愛い我儘な感情を押し殺し、不貞腐れるのを止めた弥生がいつもと同じように糢袈の顔を優しい眼差しで見つめてくるが、それはどことなく寂しそうな笑顔だ。
弥生は少しも悪くないのに、弥生が謝る必要なんてどこにもないのに、弥生に謝らせてしまった事が糢袈の心を酷く痛める。
信号が青に変わる。
横断歩道を渡る人達が道路に群がる。
けれども、弥生と糢袈はこの場所から一歩も動こうとはしない。
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