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約束の時間の十五分前にノートパソコンを起動させて、その時間になるのを待っていた。
読みかけの本と淹れたてのコーヒーを傍らに。待つ準備も完璧だったが、二分もしない内に、人物のマークのアイコンに『+1』と言う表示が現れ、『漆原 さんが参加しました』と吹き出しの通知が続く。
「早いじゃないか」
「…お前こそ」
私が素直に感心すれば、正義は少し気まずそうに視線を外した。大方、自分が先にログインして待っているつもりが先を越されたことに思うところがあったのだろう。可愛い奴だ。
それでも、他愛もない会話になればいつも通りだ。
約束しているのは時間だけで。特別な用事なんて無い。その日あった何でもないことや過去の思い出話なんかを話すだけ。
こうして話す事は、久方振りだった。もうずっと、会ってもいない。会おうと思えば会えなくもない距離ではあるが、お互い多忙を極め、会う時間がなかなか作れないでいた。
社会人になればもっと自由なのかと思っていれば、そうではない。貯金ばかりが貯まり、休日もリフレッシュに当てれば、直ぐにまた多忙な日常がやって来る。
愛があれば遠距離だろうと深夜であろうと会いに行ける!……なんてものは大学生までの理論だ。……私も正義も、そんなタイプではなかったが。
卒業を機に、ヤツのアパートにでも転がり込んでしまえば良かったか、と。密かに思うこともあった。
けれどしかし、正義はそんな提案をしてこなかったし、私のしたい事もまた、奴の傍でするには少し不具合があった。
他愛の無い会話は、かつての旧友達が今何をしているかの話になる。いつもの流れだ。普段はスマホの通話でのみ話していたが、今回はウェブ電話なのでヤツの表情が見えるのが新鮮だった。…随分、哀愁を帯びた目をして語っていたんだな。
「………凛?」
気が付けば、その平坦なパソコン画面に指先を触れさせていた。正義の頬辺りに触れた指から伝わるのは、機械的な温もりだけだ。正義は私の突然の行動に怪訝な顔をする。……勿論、私が画面越しにその肌に触れているなんて考えは微塵も無いのだろう。
「ああ、すまない。画面に汚れが……と思ったら、お前の隈だったようだ」
「おいっ!」
くすくすと笑う。
けれど、正義は不服そうな顔のままにこちらを窺っていた。
(…………会いたい、な…。触れたい……)
お前は、どう思っている?
ーーーそんなセンチメンタルも大概な事、まさか、私の口から訊けるはずも無かった。
誤魔化すように、用意していたマグカップに手を伸ばし、コーヒーを一口飲んだ。苦味の中にほんのりと砂糖の甘味を感じる。コーヒーは微糖派だ。それでも、ブラックコーヒーばかり飲むコイツに見栄を張るように、コイツの前ではコーヒーをブラックで飲んだ。……そんなところが、未だに私にはあった。
「…………凛、」
「なんだ」
正義が深刻な顔をして私の名前を呼ぶ。私も、静かにマグカップを置き、表情を引き締めて真顔になる。
「もうすぐ、二年だな」
「……そうだな」
私が今の仕事を初めて、二年になる。恐らく、その事を言っている。
仕事はどうだ。慣れたか?やりがいは。お前ずっと真っ直ぐに、その仕事がしたいと言っていたからな。
矢継早に私の仕事の事を訊くヤツは、少しもそわそわとしては見えなかった。だから、次に続く言葉を予想できなかった。
「……なぁ、一緒に、住まないか…?」
「えっ、……」
不覚。
驚いて丸めた目を、ぽかんと開けてしまったその口を、正義は見詰めていた。……真剣な顔だ。しかしそれも数秒で、私が口元を引き締める頃には、気まずさ故かへらへらと笑った。「いやぁ、」と言葉を紡ぐ。
「……わかってる。お前の夢を、俺も応援したい。こんな提案はお前の負担にしかならないんだろう。だけど、」
未だに目を丸めている私は、ただ、正義が紡ぐ言葉の続きを待った。
「……一緒に居たいと、そう…思ったんだ。思うんだよ。こうして、こんな風でしか、会えない。電話でしか声を聞けない。……触れたくても、触れられない」
「……」
息を飲んだ。
「あんなに傍に居たのに。今は、何もかもを遠く感じるんだ。物理的な距離もそうだが、それ以上に。なんか、………傍に、居て欲しい」
「………」
目の前がちかちかとするようだった。
照れたように笑い、時々それ故に不貞腐れたような顔をする、この目の前の彼は、私のよく知る正義で合っているのだろうか……?
(『傍に居て欲しい』……なんて、)
きっとその言葉を、私達は何度も飲み込んだ。
互いの足枷になるのを恐れていた為だった。
そして、同性カップルで言うところの同居とは、そういう……意味を指す。気安いものではない。……正義が、そういうつもりなのかはわからないが。
想像した。
疲れて帰ったアパートの窓から漏れる光。誰かの存在。玄関の鍵は開いている。「ただいま」と言う。中から、「おかえり」とぶっきらぼうな声。リビングへ進めば、正義が簡素なエプロンを着けて、何か簡単な料理を作っている。鼻腔を擽る夕飯の香り。
「……」
「……想像するんだよ。疲れて帰って来た時、玄関を開けたら、お前が『おかえり』って言うとこ」
「……、待て。きっと、お前の帰りより私の帰りの方が遅いぞ?」
自分は女役という自覚はあったが、きっと世の主婦のように夫の帰りを家で待つ、と言う頻度は少ないだろう。今も、晩の十一時を過ぎたところだが、ほんの一時間程前はまだ職場に居た。
「……別に、いんだよ。そこは。大事なのは、お前の帰る家と俺の帰る家が同じってことだからよ」
「………」
再び絶句した。
どうしたんだ、正義。お前、そんな言葉を紡ぐようなヤツだったのか…?ともすれば、私は、思っていたよりもずっと、
(……求められていたのだな……)
沸々と沸き上がる温かい感情。『嬉しい』も『幸せ』も『愛おしい』も、こんなに不器用なコイツがいなければ、しかしいつだって満たされないのだ。不思議だ。……私は、思っているよりもずっと、正義のことを好いているらしい。
「………俺が引っ越す」
「え、」
「お前、事務所から離れると何かと不便だろ。家が遠いと退勤後に帰るのも億劫になるだろうし」
「……でも、そしたら、お前が不便だろ……」
「別に。俺の仕事は何処でも出来るからな。担当エリアを変えて貰えばいい。ずっと、考えた」
「……」
また一口、コーヒーを飲んだ。ゴクリ、と音を立てて喉を通る。
「………お前に、言ってなかったことがある」
「………なんだ」
「……私は、実はコーヒーは『微糖』派だ」
「…………知ってる」
知ってたのか、と驚いた。
画面の向こうで、正義は頬を掻いた。徐ろにマグカップを傾ける。恐らく、それはブラックコーヒーなんだろう。
「まだある」
「なんだよ」
「実は、虫が苦手だ」
「……知ってる」
「………」
案外、正義は私の事をよく知っていたらしい。
「真っ暗なのが苦手だ。寝る時は豆電球を点けるぞ」
「構わねぇ」
「朝は簡単にトーストになる」
正義が和食を好むのを知っていた。
「構わねぇよ。朝飯なんて今、忍者飯で済ませてる」
忍者飯、とは固めのグミの事である。
確かに、正義は和食派ではあるが、言われてみれば自分のことに無頓着だった。強いこだわりなんてものは無いのだろう。
「うちは狭いぞ。1DKだ」
「知ってる。それでもいいし、そっちで新しい物件を探すのも悪くないと思ってる」
どうだ?と訊かれて、一度口をつぐんだ。どうだ、と訊かれてしまえば、決定権は私にあるということになる。そっと、息を飲んだ。それを、ゆっくりと吐く。
「………お前に、言えていなかったことが、まだ…あるんだ」
「なんだよ」
苦笑いするその顔は、すっかり許容する顔になっていた。仕方がないヤツだ、と私を受け入れる。正義は意外と、懐が深い。
「………私も。お前と暮らしたいと……思ってた……」
「……」
今度は正義が目を丸める番だった。
慣れないデレに、頬が熱くなるのを自覚する。その顔を見てか、正義も不健康そうなその顔を朱に染めた。
「え、あ、じゃあ、その……」
言葉を詰まらせ、目を泳がす。
どんな言葉が相応しいだろうかと探しているのだろう。そんな慌てたヤツの様子に、私はやっぱり笑った。
「お前と、一緒に暮らしたい」
正義の言葉を待たずに私が真っ直ぐに告げれば、ヤツは拍子抜けた顔をして、それから、少し不機嫌そうな顔をして「おう」と言う。……自分が決定打になる言葉を言いたかったのだろう。そうさせてやらない意地悪な私は、したり顔でふふんと笑った。
「………まずは物件だな。次の休み、いつだ?不動産行くか」
「ああ。明日は休みだ」
「そうだったな。じゃあ、明日行くか」
お前、仕事は?と訊けば、「有給使うわ」なんてらしくない言葉が返ってくる。お前も、大概仕事人間なんだろうに。いいのか。ーーー嬉しくて、頬が弛んでしまった。
「……やっとお前に、触れられるんだな」
今にも綻びそうな顔をして、ヤツがそんなことを言うものだから。
優位に立ったつもりで平静になっていた顔の体温がまた、上がった。
「お。真っ赤」
「う、うるさいっ…!」
茶化して笑う正義をキッと睨んだが、いつもの何百万分の一も、迫力なんてものは無かった事だろう。
「凛、」
「なんだ、」
「……やっぱ、明日言うわ」
「………」
愛してる、なんて、また柄にもなく言ってしまい出しそうな雰囲気を一瞬だけ匂わせて、正義は「明日」と言う。
明日の楽しみがまた、増えてしまったではないか。
「今日はもう寝るか」
「ああ。……いや、まだ、眠くない…」
もうちょっと、なんて言えない私に、ヤツは苦笑する。
「そうだな、俺も」
明けなければいいのに、といつもは思う夜なのに。
今夜はそれが、こんなにも楽しみで仕方がない。
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