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クーラーの効いた自分の部屋で、私は頬杖をつきながら原稿用紙に向き合っている。
もちろん、夏休みの宿題をやっているわけではない。学校の宿題は夏休みに入る前に終わらせていたし、塾からの宿題もたった今、終わらせたところだった。
私の夢は作家になることだ。この夢は長い間ずっと変わっていない。
そう、長い間ずっと。
作家を目指す理由は至って単純だった。本を読むことが好きだから。私が本で感動を得たように誰かに感動を与えたいから。
小説を書いているこの瞬間が、自分にとって何よりも楽しいものなのだと知ってしまったから。
シャーペンを手の中で弄ぶ。原稿用紙はまだ半分も埋まっていない。
本を読むことは物心ついた頃から好きだった。去年までは一日一冊のペースで読んでいたのだけど、さすがに今年はそういうわけにもいかない。
それでも何日かに一回、図書館に行くという習慣だけはやめられずに続いていた。
その結果、私の肌は周りの子と比べれば健康そうな小麦色になっている。
「心陽」
背後のドアから声がかかる。振り向いてみると、エプロン姿の母がドアに寄りかかるような形で立っていた。
「ちょっと! いきなり入ってこないでよ」
「……それ、宿題じゃないわよね?」
急いで腕と上半身で机を覆ったが、間に合っていなかったようだ。母の顔が分かりやすく曇る。
シャーペンが机の上を転がって床に落ちた。軽やかなリズムが部屋に響く。
「小説を書いてたの。宿題はもう終わったから、ちょっと休憩のつもりで」
「休憩って言って、どれくらいやってるの?」
「んー、一時間くらい?」
母が大袈裟にため息をつく。そんな様子をじっと見つめていたからか、目が合った。
「今年は受験生なんだから、ほどほどにしなさいよ」
母はそう言うと、スリッパの音を響かせながら階段下のリビングへと戻っていった。
語気は強かったが、顔は困ったような笑顔を浮かべていて……。
少しだけ嬉しそうに見えた。
あの不思議な出来事から一年後。高校三年生になった私は三度目の夏の続きを過ごしている。
私は一年経った今でも、あのときのことを昨日のことように思い出す。窓の外で鳴く蝉の声はとても遠くに聞こえていた。
しばらくの間、私は地面に仰向けで寝転がっていた。やがて自分の置かれた状況が分かってくると、周りの喧騒が戻ってくる。
私はゆっくりと体を起こした。体のあちらこちらが痛んで、顔を歪める。
腕や足はところどころ擦れて出血していたが、骨折など大きな怪我はしていないようだった。
暴走した自動車が、数メートル先の商店街の出入り口に設置されている車止めに衝突して止まっている。
「……ッ」
隣から声にならない呻きが聞こえてきて、私はハッと我に返った。
先ほどの私と同じように、仰向けの状態で顔を歪めながら寝転がっている人がいる。
「鈴華」だった。
唐突にその目が開いて、私を捉える。
目が合って、私たちはそれが必然だったかのように同じタイミングで立ち上がった。私より少し背の高い「鈴華」を見上げる形になる。
言葉は交わさなかった。ただ、お互いの瞳の中にいる自分の姿を見つめていた。
八月十五日。私たちは生き延びた。自分たちの手で運命を変えた、脱力感と達成感とが心の中を支配して、もう何も言えなかった。
しばらくの間、向き合っていた私たちだったが、野次馬が寄ってきて、二人の間にある繋がりを断ってしまうようになると背を向けた。そうして、お互いの帰るべき場所に向かって歩き出した。
二人が交わることはもう二度とないだろう。
昼間とは別の騒がしさで商店街は溢れ返っている。振り返って見てみても、そこに「鈴華」の姿を捉えることはできなかった。
事故の後、聞いた話によると、事故に巻き込まれた人はたくさんいたが、ほとんどが軽い怪我で済み、亡くなったのは自動車の運転手だけだったらしい。運転手は歩道を走行しているときに心臓発作を起こし、すでに死亡していたという。
もちろん、事故後の夏祭りは中止になった。
しばらく日にちが経って、事故の処理が済み、騒動が収まると、私は母を連れてあの本屋に向かった。
夏の暑さはまだまだ去りそうにない、夏休みの終わりのこと。
店内はエアコンなど設置されていないのに、扇風機の風が当たるだけでかなり涼しかった。
外から見えていた客引き用のポップに目が止まる。
「涼雅」
私は思わずポップに書かれた名前を読み上げた。
引き付けられるようにその作者の本が陳列されている棚に近づいていく。
「蘭 涼雅」
それは「鈴華」であったときのペンネームだった。そして、私は理解した。
最初から私が惹き付けられていたのは「蘭 涼雅」だったのだ。どおりでいつまで経っても「涼雅」という名前の作家が出てこなかったわけである。
「最近、有名な作家さんじゃないの。何? 気になってるの?」
背後から母がやってきて、本を手に取る。
背表紙の「蘭 涼雅」の文字が強く浮き上がって見えた。
「私、本気で作家を目指しているんだ」
母が眉間にシワを寄せる。ただ単純に私の突然の言葉をいぶかしがっているようだった。
「……どうしたの、いきなり」
「くだらないことって思うかもしれないけど……他のこともなおざりにしないで頑張るし、今はこれが楽しいからやらせてほしい」
そこまで言ってから、自分の失態に気付いた。
なぜいきなりこんなことを言い出してしまったのか、分からない。これでは母を混乱させるだけだ。
「いや、えっと、この作家さんに勇気をもらったって言うか……ちゃんと私の気持ちを伝えてなかったなと思ったって言うか……」
「そう。そこまで言うなら──」
母は私の焦りをよそに返答する。そうして、手に取った本を私に手渡した。
「自分ができるところまで精一杯、やりなさいね」
母が他の本棚に移動していく。私の手の中には本のしっかりした重さが確かにあった。
受験勉強をひとしきり終えて、自分の部屋からリビングに戻ると、母がソファーに腰掛け、半ば身を乗り出すような形でテレビを見ていた。
そんなに面白い番組が放送されているのかとテレビを見ると、いつもと変わらないニュース番組が放送されている。
いつもと違う点と言えば、テロップの「特集」という文字と「蘭 涼雅」の文字が一段と大きく誇張されて書かれているところだろうか。
「あなたの好きな作家さん、紹介されてるわよ」
まるで私が後ろに立っていたことを悟っていたかのように、母は顔だけこちらに向けて、自然と話しかけてきた。
音なんてほとんどしていなかっただろうに、母の優れた察知能力に驚きつつも、私は言葉を返す。
「彼女、最近になって新しいジャンルに挑戦し始めたらしいね」
もともと「蘭 涼雅」は日常生活を題材にした小説を多く書いてきた。けれど、最近になって、SFやファンタジーなんかにも作品の幅を広げているのだ。
特に注目されたのが、今テレビで紹介されている話で、車に轢かれて死んでしまった主人公が、別の人間になり不思議な体験をすることになるというものだ。
私は「鈴華」になって、努力を重ね、作家になった。そのときの感覚をもとにすれば、私だって今すぐにでも作家になれるのではないかと思ったのだが、無理だった。
私はあのとき、完璧にひとりの人間「鈴華」として生きていた。
同じように私はひとりの人間「心陽」として生きている。そこに「鈴華」の部分はひとつもない。
記憶はあっても、技術や感覚が今の私にあるとは限らない。それは悔しいことだけど、今はそれでいいと思っている。
「彼女……? この人、女の人なの? 名前は男の人っぽいけど……」
母は意外と勘が鋭い。私の些細なミスも取り残すことなく拾っていく。
「蘭 鈴華」は性別や年齢など、自分に関わることを一切明かしていない。
本当の姿を知っているのは、ひとときだけでも「鈴華」だった私だけなのだ。
「あー、ううん。間違えただけ。彼、だね」
母が今度は体ごと、こちらに向けて、私をじっと見つめた。あまりに真剣な顔で見てくるものだから、何か見透かされているようで、私は後ろへ一歩退く。
「心陽、急に大人っぽくなったわよね」
「そう? コーヒーは飲めないし、服はおしゃれに着こなせないし、好みも子供っぽいよ」
母は真剣な表情を少し緩めて微笑んだ。
「そうじゃなくて、落ち着いて物事を考えられるようになったわねってことよ」
「……うん、そうだといいな」
母との会話が終わると同時に、ナレーターが本の一節を読み上げ始める。
「一瞬の出来事だった。強い日差しにさらされ、汗が湧き出るような真夏日。自分の足は鉄板のように熱くなったアスファルトについていたはずだった──」
私は目を閉じる。そうすると、あの夏の光景が今でも鮮明に浮かんでくるのだ。
あの夏の出来事は本当になんだったんだろう。たまに思い出しては考えているけれど、答えは出せないままで、今ではやはり夢だったのではないかと疑ってしまうほどだ。
なんらかの原因で私という存在が二つに分かれたとか、全く別の人間である二人が入れ替わったとか、タイムスリップをして過去の私を救ったとか……。
いろんな考察はできるけれど、どれも本当でどれも嘘のような気がする。
確実なのは私たちがあの夏に生きていたということ。何かを感じ、何かを考え、必死に生きたということ。
あの夏には辛いことも悲しいこともあって、私たちはそれらを乗り越えて対価を得たということ。
私は心陽として生まれ、「鈴華」に生まれ変わり、また心陽に戻った。三度、あの夏を過ごした。そう、思っていた。
だけど、違ったのかもしれない。
私たちは同時に存在していた。心陽であって、鈴華であり、同じ時を一緒に過ごしていただけなのだ。一緒に過ごす中でお互いの人生を再確認していただけなのだ。
あの夏が私たちの再出発点だった。
だから、今生きているこの夏の呼び名を改めなくてはならない。
二度目の夏、と。
暑い夏はまだ終わらない。私たちは、私は、これから二度目の夏を生きていくのだ。
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