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一瞬の出来事だった。
強い日差しにさらされ、汗が湧き出るような真夏日。自分の足は鉄板のように熱くなったアスファルトについていたはずだった。
それが今、宙に浮き、空の青とセットになって自分の目に映っている。音はない。
時間はゆっくりと流れ、ひとつひとつの映像がコマ撮りのように進んでいく。
しばらくすると、青い背景に赤が散らされた。それが自分の血の色であると気付くのに時間はかからなかった。
青い空、白い入道雲、黄色い靴、赤い血。
この景色を描写したら、最高の作品になったのに。そんな場違いなことを唐突に考える。
最近の自分はひとつの作品も満足に書き上げられないでいた。何度、原稿を破り捨てたことか。
その度に自分の人生を恨んだ。どうしようもない、退屈な人生だと嘆いた。
でも、いざこうして死を覚悟すると、自分がいかにこの世界を愛していたのか、思い知らされる。
自分を大切に育ててくれた、温かい家族のこと。幼い頃から変わらない将来の夢のこと。雨が降った次の日の匂いが好きだったこと。気に入った音楽を何度も聞いたこと。
色とりどりの景色に透明な雫がいくつも浮かんで揺らいだ。
──もし来世があるのなら。今度は後悔しないように生きたいなぁ。
突如、大きな破裂音が耳の奥からして、音が戻ってくる。濁った蝉の声と周囲の喧騒。
それも束の間、視界は真っ暗になった。
バイクが排気ガスを撒き散らしながら、すぐ横を通りすぎていった。大きな振動が鼓膜を揺らす。
「ごめんなさい! 大丈夫?」
「…………え」
頭の方から声が降ってきて、ようやく朦朧としていた意識が戻ってくる。
どうやら私は道路に座りこんでいるらしい。目の前にヒールを履いた女の人の足が見えた。
顔を上げるも、帽子のつばが邪魔をして表情は見えない。
「角なのによく確認しないで曲がってしまって……あなたにぶつかってしまったの」
腰辺りまでしか見えないが、その動きから私のことを心配している雰囲気が伝わってくる。
私は立ち上がると帽子を取って、女の人の顔を見た。
「勢いよく曲がった私が悪いんです。こちらこそすみません」
今度は逆光で女の人の顔が陰って見えない。強い日差しに目の奥がツンとして、めまいがした。
清楚な服と緩やかにカーブした肩までの髪。キャップに半袖半ズボン、運動靴の組み合わせをした私とは対照的に見える。
また顔に視線を戻したとき、息を飲む音が聞こえた気がした。
「えっと……どうかしましたか?」
表情は相変わらず読み取れなかったが、その動きはぎこちなく、先ほどの私を気遣うような雰囲気は消えていた。
「いえ、なんでもないの。それじゃあ、私、急いでいるから」
女の人が横を通り抜けると、夏のよどんだ空気に風が流れた。取り残された私の耳に蝉の声が戻ってくる。
「……本、借りにいこ」
本来の目的を思い出した私は、また元気よく走り出した。
クーラーの効いた自分の部屋で、私は頬杖をつきながら原稿用紙に向き合っている。
もちろん、夏休みの宿題をやっているわけではない。学校やら塾やらの宿題は夏休みに入ってから一度も手をつけていなかった。
私の夢は作家になることだ。この夢は長い間ずっと変わっていない。
作家を目指す理由は至って単純。本を読むことが好きだから。私が本で感動を得たように誰かに感動を与えたいから。
シャーペンを手の中で弄ぶ。原稿用紙はまだ半分も埋まっていない。
本を読むことは物心ついた頃から好きだった。今では一日一冊のペースで読んでいる。だから、図書館へはほぼ毎日のように行っていた。
一度に何冊か借りればいいのだけど、そうすると私は夏休みの間中、涼しい家にこもりっぱなしで本を読むことになる。それでは不健康なので、図書館に行くという目的をつくってみた。これはなかなかの名案だと思う。
おかげで図書館にしか行かないのに、私の肌は健康そうな小麦色になっていた。
「心陽」
背後のドアから声がかかる。振り向いてみると、エプロン姿の母がドアに寄りかかるような形で立っていた。
「ちょっと! いきなり入ってこないでよ」
「……それ、宿題じゃないわよね?」
母の顔が分かりやすく曇る。私の夢をあまり良く思っていないのだ。
クーラーが強すぎたのか、私の腕に鳥肌が立った。
「……そうだ! さっき玄関前で、この前ぶつかっちゃった女の人に会ってね」
最初は誰だか分からなかった。それどころか、不審者かと疑った。
あの日から一週間近く経っているし、女の人の顔を覚えていなかったし、帽子を深くかぶって、玄関先から家の中を覗いていたから。
私たちはそのまま五分ほど話をした。短い時間だったけど、女の人の言葉が強く胸に残っている。
「『あなたは夢を諦めないで。絶対に叶うから』って言われたんだ」
だから、諦められないんだ。私の夢は本気なんだ。そう伝えようと母の顔を見た。
「またそんなくだらないことを……」
あきれたような、蔑むような表情だった。
シャーペンが机の上を転がって床に落ちる。鋭い音が部屋に響いた。
「くだらないことじゃ──」
そこまで言って口をつぐんだ。何を言っても聞き入れてもらえないと分かっていたから。
ううん、違う。はっきりと否定されてしまうのが怖かったんだ。私の夢は叶わないと。私の夢は家族からさえも応援されないと。
私は原稿用紙を破り捨てた。そのまま、大きな声で何か言っている母の横を通りすぎると、走って家を出た。
空は冷たい青色をしていた。
私は家を出てから行く当てもなく、街をさまよい歩いていた。
夏の強い日差しは肌を焦がすようで、一人か二人くらいは焼け死にそうである。
それなのに、街には人が溢れ返っていた。特に浴衣を着た人が多い。
この暑さで浴衣なんて着れたもんじゃないと思う半分、そういえば今日は夏祭りだったと思った。
毎年、八月十五日に開かれる、町内会主催の夏祭り。この辺は住宅ばかりで、店と言ったら寂れた商店街くらいしか思い浮かばないようなところなので、祭りの規模はそんなに大きくない。
それでも祭りになると、町中に提灯が下げられ、普段は人通りの少ない商店街もいくらか賑やかになる。
そんな商店街を人と人の間をすり抜けながら歩く。アーケードの終わりへと近づいていく。
商店街を抜けて、横断歩道を渡ろうと思ったときだった。視界の端に小さな本屋が映った。
「こんなところに本屋さんなんてあったんだ」
店内の壁に取り付けられた扇風機が首を振っている。古びた外観からはとてもじゃないけど、儲かっているようには見えない。
客引きのためか、外から見える位置に「涼雅」という文字が見えた。確か、ニュースで最近注目の作家だと紹介されていたっけ。
今日はこの店で彼の本でも見て家に帰ろう。それで、後日ここに買いに来よう。
家を飛び出たときの気持ちの昂りは消えていた。昼時でお腹が空いていたのも、理由のひとつにあったかもしれない。
そのときだった。本屋に近づく私の視界に「何か」が映ったのは。
ちょうど渡ろうとしていた横断歩道の方向に顔を向ける。途端に視界が真っ白になった。それはほとんど目を開けていられないような眩さだった。
遠くで誰かの叫ぶ声が聞こえる。何と言っているのかは分からない。
気付けば、私の体は空高く打ち上げられていた。
意識が途切れる前、最期に思い浮かべたのは母の顔だった。怒った顔でも、悲しい顔でもない、笑った母の顔。
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