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商店街の中は余計に蒸しているような気がする。私は人のはけたところで「心陽」が現れるのを待っていた。
ちょうど事故が起こった本屋の前。
皮膚だけが浮いたような感覚がして腕を見ると、鳥肌が立っている。前世のこととはいえ、自分が死んだ場所に立つのは気味が悪かった。
それにしても人が多い。これだと「心陽」を見つけられないまま、事故が起きてしまうかもしれない。
小さい子供を連れた夫婦。仲良く寄り添うカップル。楽しそうにはしゃぐ女子高生。
私だけがひとりでいるような気がした。
私には小説しかない。それで悪いと思ったことはないし、むしろ今まで充実した人生を送ってきた。
それでも、目の前に広がる選択肢が私にもあったのだと思わずにはいられないのだ。
……あれ、なんで今さらこんなことを思うんだろう。
私は首を強く振った。毛先から汗が飛ぶ。
いけない。考え事をして「心陽」を見逃してしまっては元も子もない。
私は見方を変えるため、商店街の外に移動した。ここなら、人混みの中からこちらにやってくる「心陽」に気付けるだろう。
そして、さりげなく話しかけて事故現場から離れさせればいい。
二人で談笑しながら、商店街の奥へと進んでいくというところまでイメージが浮かんだときだった。
「危ない!」
前方から声がかかる。一見すると男の子のような姿の少女が私に向かって手を伸ばしていた。髪を振り乱し、必死さに顔を歪めている。
「心陽」だった。
そのとき、私は全てを思い出した。
車にひかれそうになっている女の人を助けようとして、私も事故に巻き込まれたこと。
その女の人は事故の一週間前に角でぶつかって出会い、数時間前に私の夢に希望をくれた人であったこと。
そして、その女の人こそが今の私──「鈴華」であったこと。
「こっちに来ちゃダメ!」
私は夢中になって叫んだ。それはほとんど言葉にならないような、悲鳴のような叫び声だった。
目の端に白い自動車が映る。数秒もしないうちに、私は空へ投げ出されていた。
眼下に「心陽」がいる。何が起きたのか分からないといったような顔で宙に浮いている。
私は目を閉じる。体の感覚が一切なくなって、この無重力の世界に永遠に漂っていられるような気がした。
絶望感と喪失感と罪悪感。そして、快美感。
私は目を開けた。瞳が光を吸収する。
雲ひとつない青い空は透き通っていて、それでいて濁っていた。
「心陽ー!」
遠くから声が聞こえる。
「……返事がないけど、もしかして寝てるのー? 早く起きて勉強しなさーい!」
おそらくその声は階段下から発せられているのだろう。
目の前には知らない天井が広がっていた。いや、正確には、長い間見なかったせいで忘れてしまっていた天井だった。
私はゆっくりと上体を起こし、周りを見渡す。
オレンジ色のカーテンを通して入ってきた光が部屋中に広がっている。薄茶色の勉強机には小物がたくさん飾られていた。
暖色系の色でまとめられた、可愛らしい部屋。明らかに私の──心陽の部屋だった。
私は恐る恐るベッドの外に足を出す。
絨毯の毛が足裏をくすぐってこそばゆい。それに足が地面についていないような浮遊感を感じる。草食動物が生まれて初めて地面に立つとき、これと同じような感触を感じるのかもしれない。
机の上に置かれたデジタル時計には「十一時三十分」と表示され、細かく秒数も刻んでいた。
図書館へ行って帰ってきた後、疲れてベットに横たわっているうちに眠ってしまったらしい。ちょっとのつもりが一時間半ほど経っていた。
……私に数時間前、図書館へ行き、帰ってきてベットに横たわった記憶はない。
これじゃあ、まるで「鈴華」だったことが数時間の間に見た夢で、私は何も変わらずに心陽として生きてきたみたいではないか。
時計には時間の他にも日付が表示されていた。
「八月十五日」
それは私の死んだ日だった。そしてまた、死ぬ日を迎えている。
全て、夢だったのか。私が事故に遭って死んだのも、「鈴華」に生まれ変わって二十七年間を生きたのも……。
私はそのままの格好、寝癖のついた髪で走り出した。足取りはおぼつかなかった。
夢だとか、夢じゃないとか、今はどうでもいい。
これは三度目の夏なのだ。一度目も二度目も事故を防ぐことはできなかった。
それなら今度は。今度こそは。どちらも助かる道を探し出さなければならない。
「ちょっと、心陽! どこ行くの!?」
母が玄関を飛び出す私を止めようと呼びかけたが、反応できずに走り去る。
母の声を懐かしいとは思わなかった。ただ、目の縁が熱くなるのを感じた。
黄色い運動靴が地面を駆ける。それが目の端に映る度、私の心は奮い立つのだった。
私の決心はもう揺るぎないものになっていた。やはり「心陽」の家へ出向き、直接話をしたことが影響してきているのだろう。
商店街へは二十分ほどかかった。「心陽」が今すぐに家を出てくるはずはないので、特別急ぎはしなかった。
アーケードには商店街のどこから見ても確認できるような大きな時計が吊り下げられている。針は「四時十五分」を指していた。
今が夕方なわけがないから、この時計は狂っているか、止まっているのだろう。
私はいつもの癖で手首を見る。しかし、そこに期待していたものはついていなかった。
「あ」
窓から差し込む光だけの薄暗い部屋。そのテーブルの上に腕時計の放置されているところが、容易に想像できる。
家を出るときにつけようと思って、結局つけないで家を出てしまったことを思い出した。今朝は「心陽」のことで頭がいっぱいで、習慣ですら忘れていたのだ。
近くの店に入ったり、周りの人に聞けば、正確な時間を教えてくれるだろう。
だが、もうその必要はない。
なぜなら、あの本屋の前に辿り着いたのだから。
いつ事故が起こるのか、正確な時間が分からない。何分後、何秒後、刻一刻とタイムリミットは迫っている。
どれくらいで落ちきるか分からない砂時計を眺めている気分だ。走っているからだけだとは思えないほど、喉がやけに渇く。
あのとき、時計を確認していれば良かった。
なぜ私は時刻を確認しようとしなかったのだ。あのときで運命を変えるつもりだったから? 違う、それだけじゃない。
そうだ。私はあのとき、家に腕時計を忘れて確認しようにもできなかったのだ。
なぜ私はこんな単純なことも忘れてしまっている?
……もう「鈴華」ではないからだ。
商店街の人混みを掻き分けながら、私は少しずつ「心陽」に戻ってきていることを感じていた。
時々、通行人とぶつかりそうになってよろめく。歩道の真ん中に立っているのは邪魔だったかもしれない。
この事故から「心陽」を救い出せたら、どんな話をしよう。私の存在がどうなるかなんて分からないのに、そんなことを考えていた。
小説を書くことが純粋に好きだった頃、私は何を感じていたのか、もっと話が聞ければいい。笑い合いながら話ができたらいい。
そして、これからを生きていけたら……。
手の内に自然と力がこもる。
商店街の中を生き物のようにうごめく人混みに、私は必死に目を向けていた。
人混みの向こうに「鈴華」を見つけた。通行人の波に揺られながら、しかし、しっかりと二本足で地面に立っている。
お互いに向き合っているのに、目は合わない。
ふと、「鈴華」の遥か後ろ、きっと私しか気づいていないであろう、白い自動車がこちらに猛スピードで向かってきているのが見えた。
その瞬間、視界は真っ白になった。
「危ない!」
人混みの中から一人の少女が飛び出してきて、私に向かって手を伸ばしている。
「こっちに来ちゃダメ!」
悲鳴のような叫びをあげると同時に、私は大きく手を伸ばしていた。
私は自分のできる最大限に手を伸ばす。あのときよりもずっと大きく。
私の指先が「鈴華」の伸ばした指先に触れた気がした。
あなたには私の未来が──。
あなたには私の過去が──。
──気付くと、私は地面に横たわっていた。
透明なアーケードから見えた空は変わらず青かった。
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