萬寿木菟

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 男は不幸症を患っていて、萬寿木菟(まんじゅみみずく)だけが頼みの綱だった。  不幸症は後天性の病で、次から次へと不幸を呼び寄せてしまう。湯呑に茶を注ぎそこねて机にぶちまける小さな不幸から、古い付き合いだった将棋仲間を亡くす大きな不幸まで、頻度も大きさも予想のつかない不幸が唐突に日常へ飛び込んでくる。  占い師に視てもらったが「運勢は悪くない」と珍しく欲しくもない答えを与えられ、ならばと半ば捨て鉢で医者に診てもらいようやく原因が判明した次第だった。ところが症例も少なく治療法は確立されていないという。  病気なのだから治るはずだ、と男は希望を捨てなかった。町の医者をしらみつぶしに回って診てもらい、更に隣町へ、またその隣町へと足を伸ばした。不幸から逃れようと血眼になって奇跡の名医を探しているうちに、不幸が感染(うつ)ってはたまらないと妻は家を出ていき、生業の米屋は不作の煽りを受けて傾き、愛犬が病に罹って死に、家に空き巣が入り、全身に痒みを生じる腫れ物ができ掻き壊しで傷だらけになった。  ある日の朝目覚めると、肌に陽の温かさは感じるのに、どこを向いても真っ暗だった。機能を失った男の両眼から無念の雫が溢れた。  男は寝間着のまま家を出た。玄関を出るまでに、段差に躓き、柱にぶつかり、三和土(たたき)から転げ落ち、涙と鼻血で顔面はぐしゃぐしゃになっていた。  外を歩くと男を目にした通行人達は小さく悲鳴を上げた。痣と瘤だらけの顔、寝間着に付着した血の汚れはところどころ黒くなり、腫れ物で赤くなった肌はあちこち掻き傷が残っている。目は開いているのに焦点は合っていない。まるで、死してなお町を徘徊する化け物のようだった。 「そこの御仁、どうなさいましたか」  男を見るなり逃げ出していく人々の中、驚く様子も無く声を掛ける者があった。 「あなたは」 「私は行商の薬売りです。お可哀そうに、目が見えないのですね。」  薬売りは男の顔を手ぬぐいで拭いて、男が涙ながらに語る不幸症を患ってからのあれこれを相槌を打ちながら聞いてやった。 「こんな苦しみが続くなら、いっそのこと自死を選びます。薬売りさん、不幸症に効く薬をお持ちでしたら売ってはくれませんか、どうか」と(すが)り付いた。 「私はただの薬売りです、お医者様が治せない病に効く薬の持ち合わせはありません」  崩れ落ちて道に突っ伏した男の肩に手を置き、「ですが、」と薬売りは続ける。 「同業から聞いた話ですが、不幸症に効く漢方は作れるとか」 「なんと! それはどこで手に入るのでしょう」 「珍しい病ですから、その都度、薬師(くすし)に作ってもらうのです。材料は自分で調達しなければなりません。基本となる材料を集めるのはそう難しくありません。不幸症の特効薬で最も重要なのは、萬寿木菟の羽です」  男が首を傾げたのは言うまでもない。木菟というからには、兎の耳のようにぴんと立つ羽が頭に付いたあの鳥であろう。しかし、萬寿木菟とは一体どんな鳥なのか、と。 「萬寿と冠するほど長寿で、希少な木菟です。全身は青一色なのだとか。その青い羽が材料です。木菟を呼ぶには笛が要ります。これをお求めください。お代はお気持ちで」  薬売りは男の手に小さな笛を載せた。竹製の簡素な笛だった。男は親指と人差し指でそっとつまんだ。 「これで木菟を呼んだとして、私には羽の色が分かりません」 「萬寿木菟は他のそれと違って、特別に滑らかな羽をしています。触ればすぐに分かるはずです」  なるほど、と言って男は懐から有り金を全て差し出した。ちゃちな笛の作りに比べてあまりに不釣り合いな額だったが、男の顔には久方振りの笑みがあった。 「異国では青い鳥は幸せの象徴なのだそうです。青い鳥はロワゾ・ブルーと呼ばれ大切にされているのです。次会うまでに、幸運が訪れるのを祈っていますよ」  しばらくして、薬売りは不幸症の男と出会った町を再び訪れた。  ひゅーい、ひゅーい、と音のする方角へ向かうと、男が小高い丘に立って笛を吹いていた。 「おい、あの男に笛を売ってやったっていう薬売りはあんたかい」  町民の一人が声を落として薬売りに近付いてきた。聞けば、不幸症の男は薬売りから聞いた話を嬉々として話して回ったのだという。 「萬寿木菟ってのは本当にいるのかい」 「さぁ、どうでしょう。少なくとも私は見たことがありませんね」 「じゃあ、あの笛は」 「子連れで薬を買いに来られるお客様がいたとき、お子様に差し上げる玩具ですよ」 「じゃあ嘘をついたっていうのかい」 「私は、ただ笛を売ったのではありません」  眉をひそめる町民に構わず、薬売りは続ける。 「『信じる者は救われる』という言葉をご存知ですか」 「なんだって」 「異国の言葉です。信じた報いとして救われることもあれば、信じている間は救われることもあるのです。彼は以前より幸せそうに見えませんか。つまりそういうことです。薬は(せっ)するのみに(あら)ず。病は気からと申しましょう」  何ら悪びれる様子も無くとうとうと語る薬売りに、町民は呆気(あっけ)にとられた。何も言い返せずにいる町民を横目に、薬売りは不幸症の男に声を掛けた。 「不幸症の御仁、萬寿木菟は見付かりましたか」 「その声は薬売りさんですか、お久しぶりです。まだやって来ませんが、見込みがあるならば探し続ける価値がありましょう。命ある限りは笛を吹きますよ」 「そうですか。では次会うまでに、幸運が訪れるのを祈っていますよ」 「ありがとうございます、どうぞお達者で」  薬売りは満足そうに笑って、町民に囁いた。 「ほらね。私が売ったのは、ただの笛じゃあない」  その町では今日も、ひゅーい、ひゅーいと笛の音が鳴る。毎日、毎日、笛の音が鳴る。
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