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一章
1
ウィリアム・パトスはピザソースのついた手で徹夜明けの目をこすった。
眠くはないものの、目は幾分疲れており、また映画を見ることにもうんざりしていた。
彼は十一時頃から映画を見始めて、続けざまに四本の映画を見た。その間、最初はコーヒーから始めた飲み物が、次にビール、最後にはスコッチとなった。
片づけられることなく端に追いやられた飲み物が混ざり合って、部屋にはすえた匂いが充満していた。
ただパトス本人はその匂いにほとんど気がつかなかった。彼自身がずっとその中で映画を見ており、一度も外に出なかったからだ。
「明日の朝七時に猿を取りに行くから、起きていろ」
昨晩の十時頃、そんな電話があった。
声は男のものだったが聞き覚えはなく、高圧的な口調だった。
結果的にそれは、パトスにとって最悪の客となった。
「朝の七時に店は開けてないよ」
パトスは映像の映し出された空間を指でつつきながら、そう答えた。その日売れた商品の情報を入力し、在庫を確認していた。
「開いてないから取りに行くんだ。店が開いてたら運ばせるだろ」
「それはそうだが、個別の案件には対応しかねるんだ。とにかく店が開いてから言ってくれよ」
「ペットショップの二階で寝起きしてるんだから、対応しかねるってことはないだろう?」
パトスは背筋をそっと撫でられたような気がした。
今では珍しくなったものの、アパートの一階を借りて店舗とするなど、以前には普通にあったことだ。その際、店員の住処は別にあることも多く、店員は毎朝家からその店に通ったものだった。だから店舗が五階建てのアパートの一階にあったからといって、店員もそこに住んでいるとは限らない。
パトスが二階で寝起きしていることなど、調べなければ知りようがないことなのだ。
「あんた何者だよ。どうしてそんなことまで知ってるんだ」
「俺が何者かは関係ない。とにかく、明日の朝七時に猿を取りに行くから運び出せる準備をしておけ」
「ちょっとちょっと。第一猿、猿って言うけど、猿にも色々いるんだ。種類くらいは言ってもらわないと」
「一番人間に似ている猿だ」
「おい、いくら人間に似てる猿だって、人間と猿ではえらい違いだぜ?」
「構わん。お前が一番近いと思う猿でいい。それと出来れば赤ん坊がいいな。なるべく生まれたての、まだ一人で歩けもしないような猿を頼む」
「そんな猿、うちでは扱って――」
パトスが言い終わらないうちに電話は切れていた。
男の気迫に圧され、手がじっと汗ばんでいた。まだ準備をするとも言ってないのだが、店先に来た男に断っても素直に帰ってもらえるとは思えなかった。
彼はため息をついて、思慮深げに顎を撫でた。
仕方なくパトスは一階に降りて、店の奥にある檻の前までやってきた。
その檻には比較的幼いチンパンジーの子どもが入れられていたが、それでも赤ん坊というにはほど遠く、檻の中を忙しなく歩き回っていた。
「どうしてペットショップなんかにしたんだか。食料品店ならこんなことにはならなかったのに」
パトスはぶつぶつとぼやきながらチンパンジーの子どもに猿用の菓子を与えた。人見知りをする性格で、客にはほとんど懐かないのだが、パトスの立場は理解しているようで、檻をあけるときも騒ぎ立てることはなかった。
パトスの言うように食料品店ならこんなことにはならなかっただろう。交通機関と通信手段が発達し、物を運ぶことに手間がかからなくなって以来、わざわざ店まで食料品を買いに来る人はほとんどいなくなっていた。
航空輸送、それも小型機による短距離での運用はことに未来創造地区では十年もの積み重ねがあり、頼んだ荷物が時間通りに来ないこと、荷物を積んだドローン同士がぶつかって事故を起こすことなどは、ほとんど起こらなくなった。
周辺部では未だに店舗を構える店があるものの、未来創造地区ではそもそも街そのものが店なのだ。大型の地下倉庫が在庫を管理し、道に設置された穴から飛び出すドローンが各家庭という陳列棚に商品を並べる。
店頭販売を行う店はその数を急激に減らしていた。
ただ、ペットショップだけは別で、実物を見て選ばなければ、商品を買うことはできない。パトスの店でも、インターネット上で、立体的な映像によるかなり詳細な情報を提供している。ただ、相性の問題もあるため実際に店を訪れる客が多く、必然的に店舗も必要となってくる。
お菓子を食べて気を良くしたのか、チンパンジーの子どもは大人しくなった。パトスはその身体を抱いて、移動可能なゲージに移した。
それから風呂に入り、明日の支度を整えて、ベッドに潜り込んだ。パトスはそこで言いようのない嫌な予感に襲われた。
それは文字通り予感に過ぎず、曖昧で根拠のないものだったが、パトスは本能的に確信していた。これはきっとよくないことが起きる。
そこでパトスはこれからどうするべきかを考えた。
まず一番よくないのは、男との取引に失敗することだろう。寝坊をしてアラームの音に気がつかなければ、後でどんな目にあわされるか分からない。あるいはシャッターを破壊して店に入り、商品を強引に持って行く可能性すらある。電話の声はそれほど冷酷だった。
パトスは寝坊するわけにはいかなかった。
仕方なくパトスは徹夜をし、男の訪問を待つことにした。
しかし、眠っていればすぐに経つ時間も、起きているには長すぎた。
そこでパトスは新作から古典的なものまで手当たり次第に映画を見て、腹が減るとピザを注文して夜食とした。
パトスはときに退屈そうに、ときに目を爛々と輝かせて映画を見た。
不思議なことに映画を見ていると、何かを手に入れた、ではなく、何かを失った実感があった。
紛れもない事実として、パトスは貴重な睡眠時間を失ったわけだが、彼の頭の中にはもっと確固たるものをなくした実感があった。
それは気がつかないうちに自分から薄れていって、ついにはどこにもなくなっていた。パトスはそのことに気がついたのではない。薄れていくこと、ついにはひとかけも残っていなかいことに、今まで気がつかなかったことに気がついたのだ。
つまり、いつの間にかどうでもよくなっていたのだ。大切だったはずのものが、大切だと思っていたことが、実際にはそれほど大切ではなかったということらしい。
それに気づかせたのは四本目の映画だった。
四本目の映画が始まった頃には空も僅かに白みはじめていた。
パトスはピザを食べながら目の前の空間に投影された映像を眺めていた。映っているのは人間が猿に支配される古い映画だ。かつては映画館というところで、巨大なスクリーンを使って上映されていたものだ。それは何十年も前のことで、いまや映画館と呼ばれる施設はどこにもない。
立体映像が普及したためだ。
それだけ大きな空間があればいいのだから、スクリーンの大きさは今や自由に変えることが出来る。あらゆる映像は公園や学校の屋上で見ることも可能だし、それを望めば感触を伴ったリアルとしてそれらを味わうことが出来る。
ジェネシスバック社の三十階にあるという社員専用のプールでは、水に浮かびながら天井に映し出される映画を見ることもできるらしい。泳ぎ疲れて、水の上に浮くと、さきほどまで言い争っていた男女が、二日酔いでゲロを吐きながら別れ話をしている。ベッドで寝ていた二人は、起き抜けに交互に便所に駆け込んではゲロを吐き、戻ってくるとビールで口をゆすぐ。
二人はやつれた顔で別れ話をし、男はしわくちゃの金を握らせて女を追い出す。
それらの光景は水中から浮かび上がった社員が目にする最初の現実なのだ。
感覚を伴う映画体験がしたい場合も、ジェネシスバック社の社員専用プールはうってつけだ。裸で水に浸かっている方がよりリアルな感触を体感できる。さらには、吐しゃ物のすえた匂いもプールの特殊な水が再現してくれる。とはいえ、貰いゲロは禁物だが。
そういった最先端の映画体験が巷では喜ばれるらしい。
もっともそれはパトスには縁のない話だった。ジェネシスバック社の社員でもないし、またジェネシスバック社に特別な権利を与えられた特権階級でもない。
だが、たとえ自宅で見る幅一メートルの映像であっても、パトスは様々なことを考えないわけにはいかなかった。
現代の映像と違い平面的でリアリティに欠けるものの、馬に乗った猿に追いかけられ、蹂躙されるシーンには空恐ろしいものを感じる。毛むくじゃらの類人猿が人間を野蛮な獣として扱い、檻に入れる。檻に入れられた人間はまさに獣のように暴れ回り、そこにはもはや知性は感じられない。
残酷だと思うと同時にパトスはゾッとした。まさに一階のペットショップでは似たような境遇の猿が山ほどいるのだ。リスザルやスローロリスのような原猿類だけではない。オラウータンやボノボ。まさに人間の親戚と言える類人猿が檻の中に閉じ込められている。
人間が檻に入れられるのが残酷ならば、猿が檻に入れられるのもまた残酷ではないか。
今までにもそんな考えに至らなかったわけではないが、それが自分の仕事だと割り切っていたし、実際、その残酷な行為をやめた途端、目の前の映像にも、油まみれのピザにもありつけなくなる。
ただ立場が逆転するだけで、実感は全く違うものになった。
以前はもっと献身的な形で猿たちと関わっていたこともあったし、大学で学んだ知識はそういった形で使われていくものだと思っていた。
しかし、パトスが学んだ専門的な知識は今や彼の頭の中で埃をかぶっている。使われるのは初歩的な知識だ。それも、以前よりももっと自分勝手な形で。
パトスはテーブルに置かれたピザを手に取り、口に放り込んだ。すでにピザは冷えており、生地は固くなっていた。安っぽいチーズの味に顔をしかめたくなる。
画面では相変わらずヒトが類人猿に蹂躙されていた。特殊メイクを施された役者たちの顔は、ところどころに間違いはあるものの、パトスからしても納得の出来だった。パトスは時間が経つのを忘れて映画を見ていたが、どちらに感情移入して、どちらを応援するべきか、結局最後まで分からなかった。類人猿が自然下で絶滅したことを思えば、これだけの繁栄はパトスにとっても喜ばしいことだった。
気がつくと既に朝で、目覚まし代わりにセットした立体映像が立ち上がり、朝一番のニュースが流れていた。
「昨晩の八時ごろ、未来創造地区三番街で警察官が現行レイプ犯を射殺しました。犯人が被害者の女性に馬乗りになっているところを、警察官は女性ごと発砲したようです。幸い弾は女性に当たりませんでしたが、レイプ犯の頭を貫通した弾は被害者女性の顎のすぐそばを通過しました。発砲した警察官は捜査のため今も外におり、警察署にはまだ戻っていないとのことです。
警察は詳細な発表を控えておりますが、射殺の必要性と正当性があったのか、検証が待たれるところです」
パトスは無意識にモニターの端を見やった。右下に小さく表示されたデジタル時計によると時刻は六時半になろうとしていた。
いくら、未来創造地区の警察官が人手不足だからと言って、八時にレイプ犯を射殺した後、翌朝の六時半まで捜査、ないしはパトロールをすることがあるだろうか。
パトスはふうとため息をついた。
おかしなことばかり起きる夜だった。
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