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パトスは部屋の中へと飛び込んでいったが、ウェスリーはホルスターから銃を抜くと、ベイビーを片腕で抱え直して、ゆっくりと部屋に入った。
ウェスリーは一部屋一部屋、安全を確認しながら進んだ。バスルームの電気をつけて、トイレを僅かに開けて中を確認していく。すべて無意識の動きだった。くぐってきた修羅場を身体が覚えているため、ウェスリーは咄嗟に動けるよう、ただ神経を集中するだけで良かった。
ウェスリーは痺れるような緊張感の中で老いを実感した。ときおりぼやけるように視界が霞むのも、緊張で身体が強張ることも、以前にはなかったことだ。もし誰かがいきなり襲いかかってきたとき、咄嗟に反応できるのか疑わしかった。
キッチンのクリアリングを終え、寝室にたどり着いたとき、ウェスリーはベッドの前で棒立ちしているパトスを見つけた。
「教授は?」
「死んでるよ」
パトスは冷静だった。
「脈はない。頭は撃ち抜かれてる。ベッドは血まみれだ」
パトスはボノボとチンパンジーの違いを一つ一つ挙げていくように、乱暴な仕草で現場を示していった。枕に押し付けられた頬、見開かれた目、後頭部に出来た穴、血だらけのまくら。
部屋は全く荒らされておらず、これが殺人目的の犯行であることは明らかだった。
恐らく、家を出るところだったのだろう。教授はよそ行きの格好をしており、ベッドで眠っていたところを撃たれたようには見えなかった。
犯行は二人が到着する直前に行われたものだった。犯人は教授を殺すとすぐさまここを立ち去ったし、ウェスリーとパトスは血も乾かぬうちにここにたどり着いた。もし、犯人が階段ではなくエレベーターを使用していたら、鉢合わせになったかもしれない。
「俺たちを襲った男か?」
「その可能性はある」
ウェスリーが保護した新生児は、猿によく似ており、武装した男に狙われていた。ここで殺されているのが類人猿研究の大家である以上、その二つは関係しているようにも思われた。
「五年ぶりの再会だった。教授は喜んで力を貸してくれるだろうと思ったよ」
パトスはベッドの脇に置かれた書物に触れた。急に訪れた虚無感を振り払おうと無意識に出た行為だった。
「それは?」
「ヒトの起源について書かれた本だよ。教授は寝る前に本を読む習慣があったんだけど、相変わらず猿づくしだ」
パトスが最後にここを訪れたのは五年以上前のことだった。教授の前の奥さんは社交的な人で、何かとパーティーを開いた。内向的な教授をなんとか喋らせようとしたのかもしれないし、奥さん自身、教授とずっと二人きりでいることに息苦しさを感じていたのかもしれない。
もしそうだとしたら、前の奥さんの思惑は成功していた。研究員や学生とは饒舌に議論を交わすこともあったのだ。
パトスは教授と奥さんが会話をしているところをほとんど見たことがなかった。唯一記憶に残っているそれらも、ピザをいくつ取るかとか、新しいオーブンを買うべきかといった事務的な会話でしかなかった。
奥さんはクリスマスやハロウィンなど、何かとパーティーを開きたがって、パトスはそのたびに呼ばれた。ただそれはパトスが優秀な学生だったというわけではない。実際はその逆で何かと手のかかる学生だった。
最後にここを訪れたのは教授の誕生日パーティーだった。
沢山の人から祝福を受け、皆と料理と酒を楽しんだ後、教授は寝室から一冊の本をもってきた。ちょうど昨晩に読み終わったらしく、教授には語るべきことが沢山あった。
類人猿の研究はどうあるべきか。類人猿と人間はどう接していくべきか。
それは最先端の研究内容ではなかった。歴史の話であり、倫理の話だった。
それでも教授が書評を交えた講義を始めると、ダイニングでチキンを食べていた学生たちが吸い寄せられるように、教授の周りに集まった。
パーティーの三週間後にパトスはゴリラの自然復帰プロジェクトで、アフリカのジャングルに旅立った。それ以来、一度も会っていなかった。
「教授はどうして殺されたんだろう。俺が教授の手を借りようとしていることを、敵はあらかじめ知っていた?」
「お前の経歴を調べれば、教授との関係を知ることはできただろう。だが、恐らくそうじゃない。教授は明らかに事件の関係者だ」
ウェスリーは死体に触れた。死体はまだ温かかった。
「なぜ?」
「傷口を見ればわかることだが、死因は後頭部から眉間に抜けた一発の銃弾だ。いいか? 前から後ろに抜けたんじゃない。後ろから前に抜けたんだ。そしてその銃弾はベッドを超えて、そこの壁に穴をあけた。よほどの偽装をしない限り、銃弾は部屋の入り口から飛んでベッドの前に立っていた教授をぶち抜いたことになる。もし教授の家に犯人が押し入ったのであれば、そんな相手に背を向けることなどあり得ないだろう。教授はおそらく犯人を以前から知っていた。犯人を部屋に入れたのも教授自身だ。そして、何かを取ろうと背を向けているうちに犯人に撃たれた。この仮説が正しければ教授がこの事件の関係者だったと考えるのが普通だ」
死体の様子はそれがプロの犯行であることを物語っていた。後頭部の中心に一発。まるで射撃の腕を誇示するかのように、寸分の狂いもなく中心を通っていた。
知人や友人の犯行でないことは確かだった。そんなことができる人間はそう多くはない。ウェスリーは心の奥で犯人を嘲笑った。
ウェスリーが犯人であれば、後頭部の中心を射抜くなど、できたとしてもやらないだろう。必要がないからだ。脳を貫通させれば、それが数ミリズレようと仕事に影響はない。しかし、犯人はそうした。寸分の狂いもなく、中心に一発だ。自分の腕前に酔いしれているのだ。
「教授はこの騒ぎとどう関係していたんだろう」
パトスはウェスリーに抱かれたベイビーを見た。チンパンジーによく似たその顔、教授の好奇心を満たすのにじゅうぶんだった。
「教授はこの子が生まれた原因を知っていたのかな?」
パトスはふと浮かんだ疑問を口にした。
「あり得ない。ベイビーが生まれたのは昨日のことだ」
「だけど、ベイビーは生まれてから数時間後にはもう命を狙われていたんだろ」
「ああ。だがベイビーがこの見た目で生まれるということは担当医師も知らなかったんだ。他の誰が生まれる前の赤ん坊が極端にチンパンジーに似ていると推測できる?」
「医師が嘘をついていた可能性は?」
「医師がどう嘘をついたって言うんだ?」
ウェスリーは医師の挙動一つ一つを思い出してみた。職業柄、嘘には人一倍敏感だったが、あのときウェスリーはベイビーの容姿に動揺していた。些細な仕草であれば見逃した可能性もあった。
「いや、例えば医師はあらかじめベイビーがとても風変わりな見た目をしていると知っていたんじゃないか? そして裏で繋がっていた何者かにその情報を流した」
「ありえない。医師がかかわっていたなら、自分でベイビーを持ち出せばいい。わざわざ誰かを雇う必要はない」
「じゃあ、あんたはどう説明するんだよ。数時間前まで存在していなかったものを狙うために、敵は随分と前から根回しをしている」
「そもそもこの子は本当に人間の子なのか?」
パトスはひと目でそれが人間の子どもだと見抜いたが、ウェスリーにはそれすらまだ疑わしかった。
「そうだ。俺たちはとにかくそれを調べなければいけない」
「でも、教授は死んだぞ」
「パスカードを探そう。研究所に入りさえすれば、あとは俺が何とかするよ」
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