一章

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 朝の七時が近づいても、男は現れなかった。ニュースでは相変わらずレイプ犯を射殺した警察官のことが取り上げられていた。警察官がレイプ犯を射殺したとき、現場には一人の目撃者が居たらしい。 「たまたまそこを通りかかったとき、おまわりさんの怒号が聞こえたんだ。何だろうと思って、路地裏に目をやると、這いつくばった男に向かって銃を構えていたんだが、男が反応するのを待つでもなく、そのまま発砲したんだ。まさかその下に女性がいるとは思わなかったよ」  インタビューを受けた男は興奮し、目の前で起こったことを、乱暴な手振りで再現していた。  パトスは威嚇行動に出るオスのチンパンジーを思い浮かべた。 「それではレイプ犯が抵抗するとか、女性を人質に取ったといった様子はなかったんですね?」 「そんなことがあるものか。とにかく怒号が聞こえた次の瞬間には引き金を引いていたんだ」  男は口の周りに生やした髭を忙しなく撫でた。類人猿の中で人間ほど髭の発達した種族は居ない。パトスはドキュメンタリー番組を見ているような気分で、男の仕草を観察していた。 「ということは、レイプ犯が警察に気がついたときには既に撃たれていたということでしょうか」 「そうじゃないかなあ。少なくともうす暗い裏路地じゃ銃を構えていたのは見えなかっただろうね」  どうやら彼の証言は警察官に不利に働きそうだ。女の上にかぶさっている無防備な男を撃ったのだ。  だが、パトスは内心その警察官を褒めてやりたくなった。個人として人を裁くことは警察官にも許されていないだろう。彼のやったことは私的制裁に過ぎない。だが、忌々しい犯罪者にはそれくらいの心構えが必要なのだ。手順を踏んで正当な裁きが待っているほうがゾッとする。被害者は常に不条理な暴力に苛まれるのだから。  七時になったので、パトスは男の訪問を待つことにした。  一階に降りて、すぐに運び出せる位置にゲージを置き、一緒に買うであろういくつかの商品、おむつや、餌といったものをカウンターに並べた。  そして、端末を起動させジェネシスバック社のデータベースにアクセスした。  チンパンジーを買うにはいくつかの手続きを踏んで、ジェネシスバック社が管理するデータベースに購入者情報を登録する必要があった。  パトスはデータベースにウィリアムペット業者のアカウントでログインし、いくつかのデータを入力した。購入時間、品目、担当した職員の名前。購入者の名前などは男に入力してもらう必要があるが、それ以外の項目はパトスが入力しなければならなかった。  ジェネシスバック社がそれをどうやって管理し、何に役立てているのかはパトスも知らなかったが、とにかくそれをしないと新しいチンパンジーを取り寄せられない。  そもそもチンパンジーを含む、ボノボ、オラウータン、ゴリラと言った類人猿は自然下では既に絶滅したことになっている。  パトスが類人猿を研究していたのは、六年前だがその頃には既に目撃情報は途絶えていた。最後に観測されたのは当時からして十年も前のことだったから、現在では十六年間、目撃情報が一度もないことになる。彼らがいた密林もほとんど残っておらず、どこかでひっそりと暮らしているとは考えにくかった。  ただ、ジェネシスバック社の絶滅危惧種保存計画は類人猿の全ての項目で成功しており、完全に絶望したわけではなかった。  ジェネシスバック社の管理する限り、類人猿が本当の意味で絶滅することはないようだ。事実、必要に応じてチンパンジーでも、ボノボでもすぐに取り寄せることができるわけで、パトスとしてもジェネシスバック社の管理を疑う気持ちはない。  七時を過ぎると、パトスは店のシャッターを開き、鍵を開けた。  ドアを開き、首を伸ばして外の様子を確認したが、人の往来はあるものの、それらしい男は見当たらない。  パトスは再び店に戻り、カウンターに腰掛けた。  パトスはその段階になってようやく、たちの悪い悪戯か、呆けた老人の気まぐれである可能性に気がついた。  だが、七時に来なかったからと言って早々に店を閉めるわけにもいかず、カウンターの中で外の様子をじっと眺めていた。  ぼんやりしていると寝ずの番がたたって瞼が重たくなってくる。パトスは眠るまいと頭を振って姿勢を正したが、瞼は直に落ちてくる。  パトスがうつらうつらとうたた寝を始めたとき、ドアが勢いよく開いて男が入ってきた。 「おい、この店では猿を扱ってるんだな?」  男は慌てた様子でパトスに詰め寄った。 「ああ、あんたが電話の男か。例のものは用意してあるよ」  飛び起きたパトスは目をこすって、男の顔を見た。  四十代後半から五十代だろうか。禿げているのかファッションなのか、頭に毛は一本もなくつるつるとしていた。目は落ちくぼんで、顔には深い皴が刻まれている。見ているこっちが滅入ってくるような疲れ果てた顔をしていたが、その疲れは昨日今日のものではないようだった。 「電話? 俺は電話なんかしてない。とにかくここはペットショップであってるんだな?」  男は落ち着かない様子で、時折後ろを振り返り、入り口の様子を確かめた。 「ああ、ここはペットショップだ。猿を買うんじゃないのか?」  パトスは電話の男と目の前の男の印象が一致しないことに気がついた。  電話の男も苛ついた様子はあったものの、声色も言葉遣いも冷淡だった。類人猿に例えるなら老獪なオラウータンで、こちらをじっと睥睨しているような陰気さがあったのだ。  一方の目の前の男は成人したばかりのチンパンジーだ。ギャーギャーと煩く陽気で、視覚に訴える形でこちらを圧迫してくる。現に目の前の男は身体を揺すって、指で忙しなくカウンターを叩いている。 「猿が欲しいんだ」 「猿なんて言われても分からないよ。スローロリスだとか、ボノボだとか、詳しくいってもらわないと」 「何でもいい。とにかく人間に一番近い猿だ」  パトスは呆れ果ててため息をついた。どうしたって、一睡もしないうちに同じようなことを二度も言われなくちゃいけないのだ。  パトスに言わせれば、猿に対する人間の見解はどうもいい加減すぎる。人間の出来損ないのように思っているものや、現世で悪い行いをすると猿に生まれ変わると思っている人さえいる。しかし、猿は、それがオラウータンであれ、チンパンジーであれ、完璧で完成された生物だった。人間の出来損ないではないし、人間と似ていると言っても違いはいくらでもある。 「あのね、人間に似てると言っても、猿は猿だから。鼻頭はなく、鼻はぺちゃんこ。体じゅう毛むくじゃらだし、口元は何とも言えないけど独特だろう? どんなに猿に似た人間だって、――」  パトスが言葉を言い終わらないうちに、男の拳が飛んできた。それはパトスの胸ぐらをつかんで締め上げる。 「御託はいいんだよ。一番似ている奴をさっさと出せ!! 分かったか!」 「わ、わかったよ」  パトスは必死に頷いた。男の剣幕に押されたためか、胸元を締めつけられているためか、呼吸が浅くなる。  パトスはそのとき、何も考えられない状況だった。どうしてこのような目に合わなくてはいけないのだとか、男と猿の間にどういった関係があって、どうして男はこれほどまでに必死になるのだろうかとか、理不尽を解きほぐすための疑問は持ち合わせていなかった。それどころか、思考はほとんど機能していなかったと言っていい。防犯用の通報システムの存在もすっかり頭から抜け落ちていた。  パトスはただ助かりたい一心で、類人猿をさっさと渡してしまうつもりだった。  男が突き飛ばすように手を離すと、パトスは首筋を撫でながらカウンターを出て倉庫へと向かった。
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