一章

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 倉庫に着くと、一頭の大人しいボノボの檻を開けた。年齢は四歳で、人懐っこい性格をしている。よほどのことがない限り、こんな乱暴な男には売りたくなかったが、こう物騒だとそうも言ってられない。  ボノボは顔色を窺うように遠慮がちに檻から出てきた。ボノボと目が合ったとき、パトスは心が痛んだ。  ボノボは類人猿の中でもっとも平和を愛し、仲間を思いやる。そう遠くない未来に、彼女は自然下では決して受けることのない苛酷な仕打ちを受けるだろう。少なくともパトスには彼女に輝かしい未来が待ち受けているとは思えなかった。  首輪をしてカウンターに戻ると、男は言った。 「よし、毛を剃れ」 「なんだって?」 「ペットショップなんだったらバリカンかなにかあるだろ。そいつの毛を剃れって言ってるんだ」  男は汚いものを指し示すかのようにパトスの抱くボノボを指さした。  パトスはその視線から庇うように腕の中のボノボを撫でた。体毛のやわらかい感触が手のひらに伝わる。 「なんだってそんなことするんだ?」 「良いから早く剃るんだ!!」 「一体お宅はどういうつもりで猿なんか買うんだ?」  パトスの目には怯えの色が浮かんでいた。 「煩い! さっさと剃れって言ってるんだよ」 「断るよ。虐待はごめんだ」  パトスの足は恐怖のためガタガタと震えていたが、声には意思がこもっていた。それは吹けば飛ぶような弱い意志だが、パトスの中にある精一杯の良心だった。 「クソ!! 良いから剃れって言ってるんだよ」  男は泣きそうな顔になりながら、腰に手を回し拳銃を引き抜いた。パトスは咄嗟に手をあげる。支えを失ったボノボがあわててパトスの首にしがみつく。 「なんだよそれ。そこまですることかよ!!」 「それどころじゃないんだよ。頼むから、頼むからさっさと剃ってくれ……」 「冗談じゃないよな?」  パトスは両手をあげながら、ゆっくりとカウンターの奥に行き、引き出しからバリカンを取り出した。その間にも男は泣きそうな顔のまま、注意深くパトスの挙動を観察していた。  銃を突きつけられていたため、パトスは一つ動作をするごとに男を見て、許可を取らなければならなかった。男が拳銃を小さく傾けると、それを確かめたパトスは次の動作に移った。  パトスはバリカンの電源を入れ、優しくボノボの腕に当てた。バリカンからは刃の振動する音が轟々と響いていた。  パトスにはそれがボノボの体毛ではなく、もっと霊的なもの、魂だとか生命と言ったものを刈り取っていく音に聞こえた。  ボノボの毛を剃りながら、パトスはボノボの頭を優しく撫でた。ボノボは一度不安げな様子で鳴いたが、パトスが撫でているせいか、後はずっと大人しかった。 「猿に詳しいのか?」  男はちらりと入り口をみやった。 「大学で類人猿の研究をしてた。大学院の動物科学のコースも取っていたし、ゴリラの自然復帰プロジェクトに参加したこともあるよ」 「ジェネシスバック社?」 「真逆。NPOだよ。人工繁殖させたゴリラを自然復帰させるプロジェクトだ」 「自然下のゴリラは絶滅したんじゃないのか?」  床にはボノボの毛が溜まり、毛がなくなったボノボは病的なまでに痩せて見えた。 「そうだよ。だから繁殖したゴリラを自然に復帰させるんだ」 「そんなことできるのか?」 「難しいよ。なんせ自然下で暮らしてる群れが一つもないんだから。彼らにジャングルの生き方を教えてくれる存在は居ない。いくら生態系が分かってても、人が教えるのには限界がある。教えられてできることではないしね」 「なぜ」  ペットショップでは餌をやって簡単な健康診断をするだけで彼らと接触することはほとんどない。だが、ボノボの皮膚に触れ、彼を安心させようと頭を撫でるうちに、パトスはかつての自分を思い出していた。そしてそれと比例するかのように、猿に対する魅力的な知識が口からあふれる。 「ゴリラなどの類人猿は極めて優秀な頭脳を持って、様々なことをいとも簡単に学習するんだが、自然下での学習はもっぱら模倣。誰かがやってることを見て、真似して学んでいくんだ。  もし自然下で絶滅したゴリラを自然に戻そうと思えば、僕たちがゴリラの生活をして、彼らにそれを示さなければいけない。  だけど、人間がゴリラと同じように草だけ食べてたら一週間と持たないよ。ゴリラは食物繊維を消化してエネルギーに変えることができるんだ。だけど、人間は食物繊維からはエネルギーを作れない。食物繊維は消化できないと思ってただろう? ところがどっこい、それは人間の能力の限界に過ぎないんだ。彼らは日常的な営みとして食物繊維からエネルギーを作ってみせる」 「なるほど」  実際、NPOで活動をしていたときは、ジャングルに作られた巨大な特別学習施設で、ゴリラのような生活をしていた。ゴリラと共に一日中草を食み、昼寝をし、夕方になると巨大な広葉樹林の葉を重ねて寝床を作る。 職員はそれらを子どものゴリラにやってみせる。そして、眠くもない夕方のうちから眠ってしまう。朝になると自然下でのゴリラはベッドのすぐそばで糞便をする。パトスやほかの職員も笑いながらジャングルで糞便をした。  そしてまた一日中葉を食む。強い意志がないと続かない仕事だった。  パトスはそれらの生活を思い出していた。それはどちらかというと厳しい生活だったが、とにかく時間だけは有り余っていて、のんびりしていた。  ゲームもなければ、テレビもなく、職員同士で会話をすることがもっぱらの娯楽だった。だが、それしかすることがないと言っても、話をすれば自然と絆が生まれてくる。そこにいたルーシーという女性とよく葉を食みながら語り合った。本当に長い間、二人でジャングルに寝そべって語り合ったのだ。  パトスは他の職員たちに隠れて、ルーシーとキスをしたこともあった。それを見ていた子どものゴリラが恐ろしく人間的なキスの仕草を覚えてしまい、他の職員のひんしゅくを買ったのだ。  とても懐かしい記憶で、パトスの表情も心なしか穏やかだった。 「頭は刈る?」  ボノボの体毛はほとんど刈られ、頭を除く全身の肌が露出していた。 「いやいい」  パトスは引き出しからタオルを出すと、短い毛に戸惑っているボノボをくるんでやった。男はそういったパトスの動作をじっと観察していた。 「寒いだろうから、服を着せていいかい?」 「今は良い。一応、持ち出せるようにしておけ」 「そうか。残酷なことをするんだな」  男はパトスの言葉に取り合わなかった。 「赤ん坊を育てたことは?」 「ヒト? 猿?」  男は既に銃を腰に仕舞い、腕を組んでいた。 「猿だよ」 「ペットショップだから」 「子どもじゃなくて、生まれたばかりの赤ん坊だぞ?」  パトスはそのとき始めて男の目を見た。疲れ果てた目の奥には、男の人生を蔽う黒い影と、何かを渇望する乾ききった視線が潜んでいた。 「あるよ」 「それなら悪いが、ついてきてほしいんだが――」  男が言い終わらないうちにそれは起こった。  カラン、コロン。  ゆっくりとドアが開く音がして、パトスと男は入り口の方を見た。  そのとき店に入ってきたのは痩せ型で長身の男だった。黒のコートに身を包み、一つ一つがゆったりとした、機械的な動きをした。  パトスは直感的に、彼が電話の主だと理解したが、電話の主もこの状況を一瞬で理解したようだった。 「伏せろ!!」  男がパトスをカウンターに押し込むとき、電話の主がマシンガンを構えるのが見えた。  次の瞬間、世界は音に包まれた。
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