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「茅ちゃん。昨日俺に言ったこと、覚えてる?」
思考を見透かしたような流し目。胸が疼いたのは、そのときだった。
「言ったこと、って……どれよ」
「青春棒に振ってもいいか、って、聞いたじゃん」
改札を潜ったあとも、変わらず足並みを揃える霞。さすがの通勤ラッシュでも彼は先導するように、しかし器用に隣を維持していた。昔は逆だったのに。
「うん……聞いたね」
「あれ、素直だ」
「……とぼけないわよ。こちとらもう25年、ずっと正攻法で生きてるんですー」
上下に並んだ、ホーム行きのエスカレーター。一段降りて並んだ視界に「んべ」と舌を見せると、霞は眼鏡の奥で目を細めた。……何だこのやろう、普通に面が宜しい。
「いやごめん。酒理由にして逃げられるかと思った」
「なんでよ」
「茅ちゃんって、たまにそういうとこあるじゃん。ずるいっていうか、理不尽っていうか……まぁ、全部好きなんだけど」
極めつけにこれか。甘い。甘くて酸っぱい。
霞を追い越し、降り立ったホームの風に吐いた息を溶かす。まだ冬の名残を残した、湿り気のない風。伸ばした前髪がそれに靡いて、列車の到着を告げた。
「霞に私は、百年早い」
そして例によって規則正しく並んだあと、彼を振り向きながら微笑んだ。
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