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銃弾飛び交う戦場の塹壕の中で、彼は軍服に身を包みライフル銃を抱きしめて座り込んで虚ろな眼で地面を見つめながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「俺、この戦争が終わったら結婚するんだ」
悲しげに言葉を続ける。
「だけど、本当は結婚したくないんだ」
俺は黙って話を聞く。俺は衛生兵が到着するまで負傷者の傷口を止血のために圧迫していなければならないので、その場を離れる事も彼の語りを止める事もできない。
「俺の家は貴族で、貴族としての立場が形骸化した現代でも家柄にこだわる時代錯誤な家族ばかりなんだ。でも俺は逆らったりせず両親のいいなりだった。そんな親や親戚が俺が産まれる前から勝手に決めていたのが今の許嫁だ。俺は彼女と結ばれる訳にはいかない」
話し続ける彼を無意識の内にじっと見つめていた俺はいつの間にか傷口を押さえる手を緩めてしまっていた。応急処置のために切り裂いた軍服のボロ布の血痕がじんわりと大きくなるのに気づいて、俺は慌てて力を込め直す。
衛生兵はまだか。
「別に彼女が結婚するに値しない人間な訳じゃない。彼女はとても魅力的な女性なんだ。
彼女も貴族の家に産まれ何一つ不自由なく育った。生まれつきの麗しい容姿も持っていた。けれど彼女はそんな自分の境遇に驕ることなく勤勉で、慈しみを持ち誰にでも優しくすることができる素晴らしい人間だ」
塹壕の上では死をもたらす鉛の塊が飛び交う中で叫び声を上げながら機銃を撃ち続ける銃手がいた。手榴弾の柄を握り敵の陣地を睨みつけながら極度の緊張から来る荒い呼吸を抑えようと胸を押さえている兵士がいた。
そして塹壕の底にいる兵士たちは、肩、足、腕、腹、皆それぞれの傷口から血を流し土の上で痛みに悶え苦しみながらうめき声を上げていた。ここで無傷で戦っていないのは、負傷者の手当をしている俺と語り続けるだけの彼の二人のみだった。
「そんな彼女と結婚できるなんて、最初に知ったときはそれは嬉しかった。貴族だからと口煩く言ってくる親や親戚は煩わしかったけど、彼女との結婚を決めていてくれたことにだけは感謝したよ。
けど、もう今ではそんなことは言えない」
俺がずっと傷口を押さえ続けている兵士は腹に穴が空いていた。傷口から手を離せば脈に合わせて血が噴き出して、この兵士は失血死してしまうだろう。最初のうちは意識を失わないようにこの兵士に必死に声をかけ続けていたが、やがてぐったりして息も絶え絶えになり反応を示さなくなってから俺は声をかけるのをやめてしまっていた。
衛生兵はまだ来ない。
彼の声が聞こえる。
「俺には弟がいるんだ。たった二人の兄弟だ。俺なんかよりずっと頭が良くて出来がいい。家督を継ぐのも俺は弟の方が相応しいと思ってる。でも長男じゃないというだけで家中の誰も認めていないけどね。弟もそんなことにはまったく興味を持たず、靴職人になりたいなんて言って周囲を呆れさせているよ。
それであるとき、気づいてしまったんだ。彼女と弟は惹かれ合っていると」
…ぶぅん…ぶぅん…どむっ…ぶぅん…。
蝿が耳元を飛び回るような不快な音は頭上を銃弾が掠める音だ。時折銃弾が土嚢にめり込んで鈍い音を立てたりもする。なぜかは分からないが、それらの音の方が銃声や爆発や叫び声なんかよりもはっきりと俺の耳に届いた。
「何というか、勘みたいなもので証拠は無かった。だから本人たちに直接問い質した。お前たちは本当は好き合っているんじゃないか、と。
そう尋ねると彼女は黙ってしまった。それはそうだ。彼女の立場から、はいそうです、と言える訳がない。弟ははっきりと認めた。彼女を愛している、と。弟がそう言ったとき彼女は嬉しげでもあり哀しげでもあった。
俺は両親に掛け合った。本当に愛し合っているのはあの二人だ。だからあの二人を結ばれるようにしてやって欲しい、と。でも今にして思えば俺のその行動はとんでもなく馬鹿なものだったんだ。彼女と弟が愛し合っていると知って、あの父と母がすんなりと認めるなんてあり得ないことだった」
傷口を押さえねばならない。
目の前の兵士は顔から血の気が引いていて、傷口を押さえている布は血が滴るほどぐっしょりと濡れていた。俺はふと、この兵士はまだ息をしているのだろうか、実はもう死んでいるのではないか、という考えを頭によぎらせた。
俺はそんな考えを頭から追い払う。俺が今やるべきことは、傷口を押さえることなんだ。それしかないんだ。
傷口を押さえねばならない。
彼の声が聞こえる。
「結論から言えば、俺の行動は悲劇の種にしかならなかった。
結婚の条件はこちらは長男でなければならず、次男では決して認められなかった。両家の人々の手によって彼女と弟の仲は引き裂かれた。弟は屋敷に閉じ込められ、矯正のためとして様々な罰が与えられた。おそらく彼女も彼女の家で同じような目にあっていたのだと思う。それはとても見るに耐えないものだった。
それでも、弟の心は決して折れなかった。彼女に会うことを諦めなかった。ある夜、弟は屋敷を密かに抜け出した。彼女に会いに行くためだ。それには俺も手を貸して彼女のもとへ弟を送り出した。しかし、二人が出会うことは無かった。
彼女のもとへ向かう道中で弟は事故にあって死んだ」
傷口を押さえねばならない。傷口を押さえねばならない。傷口を押さえねばならない。傷口を押さえねばならない。傷口を押さえねばならない。傷口を押さえねばならない。傷口を――――
「弟の死が彼女の耳に届いたとき彼女は卒倒し、今も療養している。彼女の心にどれほど大きな苦痛が与えられたかを俺は想像することしかできなかった。俺は彼女になんて声をかけるべきか悩み続けているうちに、徴兵されて今こんなところにいる。
俺は、どうすれば良かったんだ?最初に二人の仲に気づくべきじゃなかったのか?それとも両親に二人の話をするべきじゃなかったのか?弟を助けて彼女のもとへ送り出すべきじゃなかったのか?
そしてこれから俺はどうすれば良いんだ?もし無事にここから帰れたとして、どんな顔をして彼女に会えば良いんだ?」
「うるせぇ!ちょっと黙ってろ!」
俺は思わず叫んでいた。当然、傷口は押さえたままで。
彼は相変わらず虚ろな眼で地面を見つめていたが、律儀にも口を一文字に閉じて黙った。
「だから……何度も言ってるだろうが!今をなんとかすることを考えろ!これからのことなんて、今死んだら何にもならないんだよ!」
俺は、危機的状況になるたびに彼が話す愚痴だか懺悔だか分からない戯言に、いつものように適当な返事をする。
はっきり言って彼は異常だし、俺もどこか正常ではないのだろう。そして戦場という、この場所自体が何かしらの狂気に包まれている。
―――ぽすっ。
唐突に何か聞き慣れない音がした。
音の方を見て最初に目に入ったのは、さっきまで塹壕の上の方で敵の陣地を睨んで息を荒げていた兵士が振り返っている姿だ。腕に銃弾が掠めたようで軽い傷から出血している。その手は直前まで何かを掴んでいたかのように半開きだ。その手の延長線を目で追って、俺は戦慄した。
塹壕の中に、ピンが抜かれた手榴弾が落ちていた。
死ぬ。最初に理解したのはそれだった。爆発まで何秒も無い状態で身を隠す場所も無い。そしてここには身動きの取れない負傷者が何人もいる。手榴弾が投げ込まれた際にはそのことを叫んで知らせることが義務付けられていたが、味方が落とした手榴弾ということに混乱して咄嗟に声が出なかった。
そしてこの後に及んでも俺は傷口を押さえたままだった。爆発する手榴弾を前にしてそんなことに意味があると思ってやっている訳ではない。ただ何となく、傷口を押さえねばならないと考えていた。
ふいに、彼が立ち上がった。その動きは一見のんびりしている印象だったが、まったく淀みのないそれは素早かった。
彼はそのまま朝の散歩に行くみたいに歩き出し、夜のベッドに体を沈めるように手榴弾に覆いかぶさって腹ばいになった。このとき俺は彼の表情を見られない角度にいた。
爆発が起こった。
手榴弾によってもたらされる筈だった死は、その手前に現れた障害物に留められて拡散しなかった。拡散を防いた障害物―――すなわち彼―――は無惨な姿になっていた。どう見ても死んでいた。
俺は恐ろしいと思った。目の前の光景を理解しながら彼に生きていてほしいと願ったとき、こんな姿になっても生きていることを望まれるなんて、それはとてつもなく恐ろしいことだと気がついた。
そして、俺は一連の出来事の最中、一度も傷口を押さえる手を離さなかった。
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