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「こんにちは。今日は兄の話を聞かせて頂けるそうで、感謝の言葉もありません」  礼儀正しい眼前の男は俺に握手を求め、俺は応じた。  俺は、頭が混乱していた。なぜなら今俺が握手した男は、つい先程彼の婚約者だった彼女から夫として紹介され、彼の弟だと名乗ったからだ。  市街地にあるごく普通の一軒家のキッチンでテーブルに着く俺の対面には、彼女と彼の弟が並んで座っていた。  俺は彼から聞いた話の中で死んでいる筈の彼の弟がなぜ生きているのか不思議に思った。しかしそれについていきなり不躾に尋ねることもはばかられた。 「…それで、兄はどんな様子だったのでしょうか」  俺は彼がどんな兵士だったかを話した。同じ隊に配属され、俺と気が合ったこと。彼の細やかな心配りに何度も助けられたこと。ひとたび戦いが始まれば彼はずっと怯えていたこと。極限状態になると同じ話を繰り返したこと。そして、彼が最期に命を賭して仲間の命を守ったこと。 「……彼は昔から変わらないわね」 「ああ、話を聞いているだけでも兄さんらしい」  二人は話を聞いている間ずっと、懐かしさと寂しさを織り交ぜた表情をしていた。彼の思い出の懐かしさと彼にもう会えないという寂しさを味わっているのだろう。  そんな二人を前にして俺は自分の知りたいことを聞きたかったが、どう切り出したものか悩んでいた。  思い切って彼の弟に尋ねる。 「……彼は危険が迫るといつも決まって同じ奇妙な話をしました。その話はあなたが最終的に死んでしまうという話でした。だから、今日あなたに会って俺はとても驚いています。これはどういうことなのでしょうか?」  俺の質問を聞いて二人は困ったように顔を見合わせたが、やがて仕方ないといった風に彼の弟が話し始める。 「これは内密にして欲しいことなのですが、実は僕は死んだことになっているのです。  戦争が起こって徴兵が始まった時、僕たちは結婚したばかりでした。そんな僕を見かねて両親を始め親戚中が協力して、書類上で僕を死んだことにして徴兵を免れたんです」  とてつもない違和感が、俺を襲う。 「ちょっと待ってください。親戚中の協力?あなた方の結婚はご両親も親戚も反対していたのでは?」 「ああ、そのことも兄から聞いているんですね。  確かに兄の許嫁であった彼女との結婚は最初は反対されました。でも他ならぬ兄がまず両親を説得して、その後家族皆で親戚も納得させたんです。もう貴族の家柄にこだわる必要はないって。それで晴れて僕たちは正式に付き合って夫婦になれたんです」 「彼があんなに頼もしかったのは、後にも先にもあのときだけね」  彼女は笑いながら言った。  何かが違う。でも何が違うのか、俺には分からない。  二人は色々と思い出したのか、思い出話に花を咲かせる。 「そういえば、私たちが付き合っているって初めて明かしたときの彼はすごく驚いていたわね」 「まったく予想だにしていなかったんだろうな。でもその後にすぐ僕たちを祝福してくれたのは嬉しかったよ」 「そして両親に逆らったことのなかった彼が、あんなに必死になって説得するなんて意外だった」 「それだけ僕たちのことを想ってくれていたんだね。  でも学校の試験勉強をサボって夜中に君に会いに行こうとしたら、兄さんに見つかって一晩中見張られるハメになったのは堪えたよ」 「あぁ、そんなこともあったわねぇ」  和気あいあいと話す二人を見ながら、俺は必死に考えていた。だけど、何一つ理解できなかった。  それから三人で、他愛のない会話をした。話題は主に彼のことや戦争のことだった。  そして俺は、彼の話した戯言と目の前の現実との食い違いについて、二人に問い詰めたい衝動に駆られた。  ―――だが、できなかった。彼から聞いた悲劇と目の前の二人を結びつけることは、今ある幸福をぶち壊すことのように思えてとてもできなかった。  日が暮れるまで話し込んで、俺は彼女と彼の弟の家をあとにした。こぢんまりとした家を背にして寄り添いながら俺を見送る二人を見ていると、これ以上の幸福な光景は無いように思えた。  彼の話と現実が食い違っているという謎は、最後まで解けないまま俺の心に鎮座していた。  俺は夕暮れの街を歩きながら、心に残ったこのわだかまりをどう解消したものかと考えていた。
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