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三
皇后の宮を出た時に侍女が二人ほど付いて来たが、一人で散歩がしたいから、と追い返す。
散歩は嘘ではないが、その行先を知られるのは少々拙い。
何故なら、これから行こうとしているのは、武官たちが多く行き交う区域だから。
母である皇后は、文官と癒着し、武官を軽んじている。
蔑視していると言ってもいい程に。
当然の事ながら、武官からの心象も良いものであるはずがない。
反対に、あの子────弟である蘇芳は、文官とは程々の距離を保ちつつ、武官と馴染み、彼らを掌握している。
皇后はそれを継承権の放棄と捉え、今のところは脅威にならないと判断した。
私を帝位に就けて権力を手に入れたい皇后としては、邪魔さえしなければ問題ないと思ったのだろう。
とはいえ、対立していることには変わりないのだから、私が武官たちの区域に近付くのは好ましくない。
だから、人目につかないようこそこそと移動する。
……当の武官に教えられた裏道を使って。
未だ不調の治まらない身体を引き摺って、やっとの思いで練兵場の近く、とある木立にたどり着く。
手ごろな木に背を預け、空を仰ぎ見た。
目を閉じ、額に手の甲を押し付けて何度も深呼吸を繰り返す。
「翡翠殿下」
ようやく落ち着いてきたところで、そっと声をかけられた。
がっしりとした体格の、けれど穏やかな気配を纏う男。
「待ち人来たり、ですね。……范大尉」
「翡翠殿下……お加減がよろしくないのでは」
速攻で見抜かれ、苦笑する。
「少しばかり。一時的なものですから、大丈夫ですよ。それよりも、これを」
何か言いたそうにしている范大尉に気付かないふりをして、懐から取り出した紙をその手に押し付ける。
ちらりと内容を確認して、一つ頷きそれを懐にしまい込む范大尉。
「殿下に間者の真似事をさせるなど……なんとお詫び申し上げればよいのか……」
俯きがちに歯を食いしばる范大尉に、再び苦笑が漏れる。
紙に書かれているのは、皇后が懇意にしている密売組織を始めとした情報。
自身の母を売るような行為を私にさせていることが、そして他に手立てがないことが、悔しいのだろう。
「気にする事はありません。私がしたくてしているのですから」
「しかし……」
「私に母を売らせているのが気がかりなのであれば、尚更気にする必要はありませんよ。……私は、皇后を母と思ったことなど一度たりともないのですから」
范大尉が、息を呑む。
そういえば、一度もこれを言ったことは無かったなと、思い至る。
「それは……」
「ご心配なく。正真正銘、私の本心です」
そう、間違いなく。
私の家族は蘇芳だけ。
蘇芳さえ居てくれれば、それでいい。
たとえ、嫌われているとしても。
「私は、あの子を守れるのならば、どんな手だって使いますよ」
知っているでしょう? と。
目の前の武官を見遣る。
蘇芳が後宮から出て宮を与えられたばかりの頃。
その頃の蘇芳は、幼い時に母君を失っていたことで後ろ盾が弱かった。
そんな蘇芳を范大尉と引き合わせて、蘇芳に武官との繋がりを作ったのは私だ。
皇后が起こし、揉み消したとある事件を利用して、私がそう仕向けた。
「……翡翠殿下」
「ふふ。内緒ですよ?」
わざとらしく口元に指をあてて、微笑んでみせる。
范大尉が、冗談を、と笑い飛ばせるように。
「いえ。そうではなく……そうではないのです」
物悲しげに呟く范大尉に、少しばかり面食らう。
「どうか、御身すらも犠牲にするような事だけは、なさらないでください。……蘇芳殿下も、悲しまれましょう」
蘇芳が、悲しむ。
そんな事は有り得ない。
だって、私は。
「あの子に、嫌われているのに……悲しんでもらえるはずが、ありません……」
行かないでと、泣きながら引き止めるあの子を置いて、後宮から出ていったのだから。
母君を亡くしたばかりで、誰を頼れば良いのかもわかっていなかっただろう、小さなあの子を。
成長したことで後宮にいられなくなったという理由はあるにせよ、嫌われて当然だった。
「……帰ります。後は頼みました」
「翡翠殿下っ!」
それ以上何も聞きたくなくて、踵を返す。
焦った声が背中に投げかけられるが、聞こえないふりをしてその場を後にした。
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