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 皇后の宮を出た時に侍女が二人ほど付いて来たが、一人で散歩がしたいから、と追い返す。  散歩は嘘ではないが、その行先を知られるのは少々(つたな)い。  何故なら、これから行こうとしているのは、武官たちが多く行き交う区域だから。  母である皇后は、文官と癒着(ゆちゃく)し、武官を軽んじている。  蔑視(べっし)していると言ってもいい程に。  当然の事ながら、武官からの心象(しんしょう)も良いものであるはずがない。  反対に、あの子────弟である蘇芳(すおう)は、文官とは程々の距離を保ちつつ、武官と馴染(なじ)み、彼らを掌握(しょうあく)している。  皇后はそれを継承権の放棄と(とら)え、今のところは脅威にならないと判断した。  私を帝位に()けて権力を手に入れたい皇后としては、邪魔さえしなければ問題ないと思ったのだろう。  とはいえ、対立していることには変わりないのだから、私が武官たちの区域に近付くのは好ましくない。  だから、人目につかないようこそこそと移動する。  ……当の武官に教えられた裏道を使って。  未だ不調の(おさ)まらない身体を引き()って、やっとの思いで練兵場の近く、とある木立にたどり着く。  手ごろな木に背を預け、空を(あお)ぎ見た。  目を閉じ、額に手の甲を押し付けて何度も深呼吸を繰り返す。 「翡翠殿下」  ようやく落ち着いてきたところで、そっと声をかけられた。  がっしりとした体格の、けれど穏やかな気配を(まと)う男。 「待ち人来たり、ですね。……(はん)大尉(たいい)」 「翡翠殿下……お加減がよろしくないのでは」  速攻で見抜かれ、苦笑する。 「少しばかり。一時的なものですから、大丈夫ですよ。それよりも、これを」  何か言いたそうにしている范大尉に気付かないふりをして、(ふところ)から取り出した紙をその手に押し付ける。  ちらりと内容を確認して、一つ(うなず)きそれを懐にしまい込む范大尉。 「殿下に間者(かんじゃ)の真似事をさせるなど……なんとお詫び申し上げればよいのか……」  (うつむ)きがちに歯を食いしばる范大尉に、再び苦笑が漏れる。  紙に書かれているのは、皇后が懇意(こんい)にしている密売組織を始めとした情報。  自身の母を売るような行為を私にさせていることが、そして他に手立てがないことが、悔しいのだろう。 「気にする事はありません。私がしたくてしているのですから」 「しかし……」 「私に母を売らせているのが気がかりなのであれば、尚更(なおさら)気にする必要はありませんよ。……私は、皇后を母と思ったことなど一度たりともないのですから」  范大尉が、息を呑む。  そういえば、一度もこれを言ったことは無かったなと、思い至る。 「それは……」 「ご心配なく。正真正銘、私の本心です」  そう、間違いなく。  私の家族は蘇芳だけ。  蘇芳さえ居てくれれば、それでいい。  たとえ、嫌われているとしても。 「私は、あの子を守れるのならば、どんな手だって使いますよ」  知っているでしょう? と。  目の前の武官(・・)見遣(みや)る。  蘇芳が後宮から出て宮を与えられたばかりの頃。  その頃の蘇芳は、幼い時に母君を失っていたことで後ろ盾が弱かった。  そんな蘇芳を范大尉と引き合わせて、蘇芳に武官との繋がりを作ったのは私だ。  皇后が起こし、()み消したとある事件を利用して、私がそう仕向(しむ)けた。 「……翡翠殿下」 「ふふ。内緒ですよ?」  わざとらしく口元に指をあてて、微笑んでみせる。  范大尉が、冗談を、と笑い飛ばせるように。 「いえ。そうではなく……そうではないのです」  物悲しげに呟く范大尉に、少しばかり面食らう。 「どうか、御身(おんみ)すらも犠牲にするような事だけは、なさらないでください。……蘇芳殿下も、悲しまれましょう」  蘇芳が、悲しむ。  そんな事は有り得ない。  だって、私は。 「あの子に、嫌われているのに……悲しんでもらえるはずが、ありません……」  行かないでと、泣きながら引き止めるあの子を置いて、後宮から出ていったのだから。  母君を亡くしたばかりで、誰を頼れば良いのかもわかっていなかっただろう、小さなあの子を。  成長したことで後宮にいられなくなったという理由はあるにせよ、嫌われて当然だった。 「……帰ります。後は頼みました」 「翡翠殿下っ!」  それ以上何も聞きたくなくて、踵を返す。  焦った声が背中に投げかけられるが、聞こえないふりをしてその場を後にした。
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