一番安心する音

1/1
前へ
/11ページ
次へ

一番安心する音

 夕食の支度をしながら、マリコはほうぅとため息をついた。  今日は仕事でミスをしてしまい、顧客にも迷惑をかけてしまった。  先輩の機転で事なきを得たけれど、ここのところどうも集中できていない自分を感じる。 「疲れているみたいだから、今日は早めに帰って休んだほうがいいよ」  優しい先輩はそう言ってくれたけれど、今度はもっと大きなミスをしてしまったらと思うと、お腹の辺りがスンと冷えた。 「ただいまー」  恋人のナツが帰ってきた。 「おかえりなさい」  マリコは努めて明るい声を出したはずなのに、ナツには直ぐに気づかれてしまう。  いつものことだ。 「……マリちゃん、どうしたの?」 「え? な、何でもないよ」 「会社でなんかあったの?」  心配そうに見つめるナツの瞳を見上げたら、思わずポロリと涙がこぼれ落ちた。 「……もう、どうして直ぐに気づいちゃうのよ」  今日こそは黙っていようと思ったのに、結局包み隠さず話してしまった。 「そっか。大変だったね。そんな日はリラックスして早く寝ちゃうといいよ」 「それが難しいんだよね……」 「うーん」  ナツはちょっと考えていたが、スッと立ち上がると台所へ。飲み終えたばかりのペットボトルを丁寧に洗った後、何を思ったかその中に生のお米を入れ始めた。 「ナツ君、何しているの?」 「えーっと、こうすると……」  ペットボトルの蓋をして、マラカスのように振り始める。  カラカラと軽快なリズムが奏でられた。 「もう、何やっているの。ナツ君たら」  呆れるやら面白いやら、マリコは思わず泣き笑いしながらツッコミを入れた。 「お、笑ったね」  ナツは嬉しそうにそう言うと、今度はペットボトルを横にしてゆっくりと回し始める。 「なんだろう? もしかして、波の音とか言っちゃう?」 「正解! 波の音って癒し系の音じゃないかな」 「まあね。そうかも」  二人でしばしザザーッという波の音を重ねながら、夏の浜辺へトリップ気分を味わった。  そのうち、ナツが静かにバラードを歌い始めた。低くて良く通る声。 「やっぱりナツ君の声いいな~。大好き」    マリコはそっと体の力を抜いた。ゆっくりと目を瞑って耳を澄ます。  語りかけるような歌声が、マリコの体を包み込んだ。と思ったら、本当に抱きしめられていた。肌越しに響く歌声が、温かいナツの体温も共に伝えてくれる。    しっとりと歌い上げたナツが、愛おし気にぎゅっと力を込めてきた。  耳を押し当てた胸から、今度はナツの鼓動だけが聞こえてくる。    トクトクトクトク…… 「ナツ君の心臓の音聞いていると安心する」 「え!」  驚いたように目を見開いたナツ。でも納得したように頷いた。 「そうか……一番安らげる音って、心臓の音なのかもしれないね。生まれる前から聞いている音だもんな」  「ナツ君、私を励まそうとがんばってくれて、ありがとうね」 「別に。マリちゃんは笑っているのが一番だからね」  互いの鼓動に耳を澄ます。    トク トク トク……  トクン トクン トクン……  静かな時間。最高の安らぎタイム。そして二人だけの幸せな時間。              おしまい
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加